前漢と後漢のほぼ真ん中に、王莽(おうもう)による「新」王朝がある。前漢末の西暦7年、実権を握った外戚「王莽」により様々な新貨幣が発行された(写真1)。王莽は従来の貨幣制度である「額面価値=実際の重さ」ではなく、額面と一致しない一定額「名目貨幣」を発行した。

山田勝芳「貨幣の中国古代史」によると、前漢武帝時代の度重なる戦費とシルクロード貿易によって、金保有金は500t⇒175tと1/3に低下し、大きな社会不安と人口減少などが起こった。そこで王莽は全ての金を国有化し、民間・諸侯が保有していた金を没収する第1次貨幣改革を実施、財政再建を行った(現在、日本国が保有する金は765t、世界一の米国は8000t)。

西暦9年、王莽が簒奪することで自ら皇帝となり「新」を建国(西暦9年〜23年)、前漢は滅んだ(紀元前206〜西暦8年)。王莽の治政14年間の貨幣政策は変転きわまりなかった。その変革は西暦7年の「大泉五十」・「栔(けい)刀」・「金錯(さく)刀」の青銅貨幣の新鋳から始まる。それぞれ前漢「五銖銭」の50個、500個、5000個に相当する高額取引用である。西暦9年には栔(けい)刀・五銖銭を廃止、重さ1銖(約0.6グラム)の「小泉直一」を新鋳してこれを1銭とし、大泉五十と併用させた(第2次貨幣改革)。

翌西暦10年、金・銀・亀甲(きっこう)・貝・銅を材質とする6形式28種の貨幣を制定するという複雑な貨幣経済(第3次改革)になり、西暦14年に大泉五十と小泉直一を廃止、重さ5銖(3グラム)の「貨泉(かせん)」と25銖の春秋時代の布銭(鍬形)に似た約17グラムの「貨布(かふ)」が登場する(第4次改革)。小泉直一は貨泉に改鋳され、貨泉25枚が貨布1枚との交換比率であったので、貨泉25枚を私鋳すると貨布4.4枚分になり、莫大な利益を得ることが可能であった。このような4回に渡る貨幣改革は結局大きな社会不安を与え、王莽政権の崩壊を早めただけであった。

「新」王朝は短期間で多種多様の37種類の貨幣を発行して複雑な貨幣制度としたが、額面に伴わない名目貨幣であったので私鋳・盗鋳が盛んに行われ、一部の貨幣以外はほとんど流通しなかった。ただ、貨布のように春秋周王朝を復古させるような貨幣を発行させるなど、貨幣収集家にとっては興味が尽きない。

天鳳5年(西暦18年)、赤眉の乱が発生し劉秀・公孫述らが各地で挙兵した。地皇4年(西暦23年)、王莽は反乱軍と戦って敗死して「新」王朝は滅び、再び劉氏による後漢(西暦25年〜220年)が成立した。写真2〜4は筆者が収集した「王莽銭」である。写真1中央にある金字で“一刀”と銅中に鋳込まれた貨幣は“金錯刀”と呼ばれる貨幣収集家にとっては貨幣史上精巧美麗な一品になっている(大阪造幣局にて展示中)。(工藤 和直)