2019年2月某日。新潟空港上空で待機しながら、私はこれから食べる地上のメシへ想いを巡らせていた。朝からの豪雪で、除雪作業が終わらないと空港には着陸できないらしい。回転寿司ランキング全国1位の「弁慶」か、バスセンターのカレーか。不正解のない幸せな二択は機長のアナウンスで暗転する。

 「ただいま除雪作業に一時間半かかるという連絡がございました。当機は残念ながら伊丹空港に引き返す1時間分の燃料しか積んでおりません。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが、これから羽田空港へ向かいます」。遠ざかる新潟空港。離れ行く弁慶、そしてバスセンター。

 伊丹を9時半に発つ飛行機に乗り、1時間後には新潟に降り立つはずだった。ところが、羽田を経由して陸路で向かうとなると、再び新潟入りするのは15時過ぎになる。

 思えば、遠回りの多い人生だった。東京から新潟へと向かう新幹線の車窓を次第に埋め尽くす雪景色を眺めながら、その日の失われた数時間をこれまで生きてきた42年に敷衍した。

 2006年に9回目の受験で司法試験に合格したが、それ以前にもっとも合格に近づいたのは1999年の2回目の受験の時だった。大学を出たばかりの私はまだ22歳と年若く、前年に苦汁をなめたマークシートの短答式試験に合格すると、論文式試験に初挑戦した。当時は、論文式試験で受験開始から3年以内の受験生を優遇する丙案という制度があった。

 はじめての論文式試験は主観的には散々な出来だった。案の定、不合格に終わったものの、後日返ってきた成績をみて吃驚する。憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法の6科目についてAからGの7段階で評価されるのだが、商法を除く5科目がAとBで、商法さえミスしなければ丙案を使って合格できた成績だった。

 「来年はまだ丙案を使える。あと一年辛抱すれば合格できる」。そう思ったのも束の間、論文式試験の成績は受けるたびに悪化した。短答式試験にすら合格できない年もあった。20代の私は、あたかも新潟空港上空から羽田空港へ旋回する飛行機のように一度は近づいた終着地点から遠ざかっていた。

 マッスル坂井というプロレスラーの存在を知ったのは、司法試験を拗らせていたその頃だった。プロレスにお笑いの手法を取り入れ、水道橋博士から天才と呼ばれる年下の男。物心つくと同時にプロレスが好きになり、14歳で浅草キッドの深夜ラジオに傾倒し、17歳でオール巨人に弟子入りして漫才師をめざした私は、坂井さんに激しく嫉妬した。まさか、十数年後、坂井さんの故郷新潟で彼の化身であるスーパー・ササダンゴ・マシンが司会を務めるテレビ番組で共演するとは思いもしなかった。

 番組は15時50分から始まるが、いつも坂井さんと新潟グルメを楽しんでからテレビ局に入るので、その日も午前中に新潟へ着く便に乗っていたのが功を奏した。陸路で遠回りはしたけれど、生放送に間一髪で間に合ったのである。それもまた私の人生のようだった。

筆者:角田龍平の法律事務所 弁護士 角田 龍平