2020年4月、73歳で亡くなったフローリアン・シュナイダー。その功績を振り返るため、米ローリングストーン誌1975年7月3日号に掲載されたクラフトワークのインタビューをお届けする。アメリカではこの年にリリースされた『アウトバーン』を携え、全米ツアーを回った彼ら。早すぎた音楽性はまだ理解されておらず、ロック扱いされているのも時代を感じるが、「機械」としてのコンセプトはすでに完成していたようだ。


クラフトワークは「人間という機械」

噴水がしぶきを上げる小洒落た内装のレストランArniesには、日曜日のブランチを求めて長い行列ができていた。だが、ドイツのエレクトロ・ロック・グループ、クラフトワークの創始者ラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーにはそんな時間はなかった。2人はこれから地元のフリースタイルのラジオ局を訪問した後、午後5時のフライトでアトランタに飛ばねばならない。初めてのアメリカツアーの真っ最中なのだ。

パリっとした黒のスーツに膝丈のグレーのウーステッドのコートを着たシュナイダーは、給仕長のほうへ歩いていくと強いアクセントで話し始めた。彼は1枚のポストカードを取り出した。一分の隙もなく着飾った男4人が、つい今しがた荘厳な神の顕現に遭遇したかのように、恍惚とした表情で宙を見つめている。カードの左上の隅にはグループの名前が書いてあった。我々はすぐに席を案内された。

●映像で振り返るクラフトワークとフローリアン・シュナイダーの歩み

クラフトワーク。直訳すると「発電所」。つい最近、アルバム『アウトバーン』がこの国のアルバムチャートでトップ5入りしたばかり。同名のシングルもトップ20入りを果たしている。多くの人々が、エレクトロの先駆者であるマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』と並んで、『アウトバーン』から商業エレクトロ・ロック新時代の予兆を感じていた。Vertigo Recordsからリリースされた同アルバムは、結成から4年経つバンドにとって初の全米リリースとなる。すでに西ドイツでは3枚のアルバムを出していた。



「アウトバーン」はベルリン内外をつなぐドイツの高速道路の旅を描いた作品。音符やリズムよりも電子パルスや電波を重視するグループのこだわりが全面的に押し出されている。ビーチ・ボーイズの楽曲とはまるで違う。もっとも、曲の中の一節――「Wir fahrn, fahrn, fahrn auf der Autobahn(僕らは走る、走る、走る、オートバーンを)」――は、アメリカの元祖カーグループの歌詞「彼女はお楽しみ中、ファン、ファン、ファン、パパにT-Bird(フォード・サンダーバードの愛称)を取り上げられるまで」に驚くほど瓜二つだが。実際、ヒュッターもシュナイダーもアメリカのバンドの影響は全く受けていないと言う。彼らのお気に入りはピンク・フロイドやイエス、タンジェリン・ドリームといったスペース・ロックに、ジョン・ケージやテリー・ライリーといったアヴァンギャルドなクラシック勢。とくに同郷ドイツの電子音楽のパイオニア、カールハインツ・シュトックハウゼンには「精神的な」つながりを感じているという。

「僕らは自分たちをロックンロールのスターだとは思っていない」60年代は学生運動にあけくれたヒュッターは、エッグ・フロレンティンをもぐもぐさせながら語った。「そうそう。僕らはただの一市民だよ」とシュナイダーも言う。「夜、機材をセッティングして、つまみをひねって演奏しているだけさ」

「クラフトワークはバンドじゃない」と、シュナイダーは続けた。「クラフトワークはコンセプトなんだ。僕らはディ・メンシュマシン、つまり”人間という機械”なんだよ。バンドじゃない。僕は僕、ラルフはラルフ。クラフトワークは僕らのアイデアを伝える手段なんだ」

「アウトバーン」とテクノロジー

ヒュッターとシュナイダーのアイデアは、最先端のキーボードと電子パーカッションを駆使して、ビジュアル性が高く、耳心地の良い音楽を作り出すことを中心に膨らんでいく(実際『アウトバーン』は、イージーリスニング・チャートにもランクインしている)。「常にメロディがあって、そこに僕らが肉付けしてストーリーを描き出すんだ」と言うヒュッターは、自らを音楽界の映画監督と考えている。「映画の脚本のようなものさ。カメラがある特定の場所に焦点を当てる。そこへ僕らが、特大レンズを操りながらズームインしているような感じさ」

アルバムバージョンの「アウトバーン」は、レコードの片面全編にわたる超大作だ。抒情的なフレーズが、音楽のドライブ旅行の各シーンを説明している。「広大な谷」に「太陽の光の筋がきらめく」のどかな風景から始まって、やがて「白線と緑の草原」が果てしなく続く幻想風景へと続き、時折ポルシェだかメルセデスだかがスピードを上げて抜き去っていく。歌詞はすべて彼らの母国語だ。ヒュッターはその理由をこう説明した。「ドイツ語は、僕らのリズムと同じように機械的で、ぶっきらぼうだからね」




「アウトバーンは僕らの音楽にうってつけの舞台だった」とヒュッター。「あえて意識したわけじゃない。なんとなくシンセサイザーを弾いていたら、アウトバーンという単語がふと浮かんだんだ。しばらく考えているうちに、どんどん広がって展開していった。まるで映画のようにね」

明らかに、クラフトワークは車やその他テクノロジーの象徴を「お楽しみ」以上のものと考えている。「テクノロジーを否定することはできない」とヒュッターは言い切った。「60年代後半にはそういう傾向もあった。田舎に帰れ、というようなね。気持ちは分かるよ。でも、テクノロジーはずっと存在する。テクノロジーと向き合って、上手に付き合っていかなくちゃ。僕らはそれを音楽にとりこんだ。上手く操れるようになればなるほど、自分たちも進化できるんだ」

シュナイダーは語る「音楽はずっと続いていくんだ」

ヒュッターとシュナイダーは、西ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州の州都、デュッセルドルフの出身。重工業地帯が広がる谷があったかと思った瞬間、次には美しい風景が広がるという激しいギャップが、彼らの音作りにも重要な役割を演じている。レコーディングした場所もインスピレーションの源になった。「僕らのスタジオは石油精製所のど真ん中にあったんだ」とシュナイダーは目を輝かせて言った。「どこも煙や炎だらけで、スタジオから出るとシューシューというノイズがそこら中から聞こえてくるんだよ」

クラフトワークは今回自腹でアメリカツアーを行っている。Vertigoのアメリカ窓口を担当するPhonogram/Mercuryの支援は受けていない。事実、Phonogramとの契約は数カ月前に切れ、現在再交渉の最中なのだ(Phonogramは3枚の未発表アルバムの権利を所有している)。ヒュッターとシュナイダーは1971年と同じ契約を結ぶつもりはなかった。当時彼らは、ヨーロッパでリリースされた3枚のアルバムの1枚目、『クラフトワーク』のすべての権利をPhilip Records(Phonogramの子会社)に、2000ドルで売却してしまった。


1975年4月19日、米シカゴでのライブ音源

全米ツアーでクラフトワークを見た人々にとって、いつもと違うと感じた一番大きな点は、新メンバーのカール・バルトスとオリジナルメンバーのヴォルフガング・フリューア、2人のパーカッショニストの起用だ。2人はアコースティックなドラムセットを組む代わりに、電子パッドをつなげて、様々なドラムの音色を再現した。シュナイダーも語るように、電子パッドはグループのエレクトロニックミュージックの基盤だ。「僕らは音の発生源という意味で、アコースティックの楽器も、屋外の音も、録音された音も区別しない。結局はどれも電気エネルギーだからね」と彼は言う。

だがおそらく、ツアー自体の評価が賛否両論別れたのは、2人のパーカッショニストの起用のせいだったようだ。お馴染みのクラウス・レーダーのギターとバイオリンはなく(ツアーではバルトスが彼のパートを担当した)、キーボードとパーカッション、それに時折シュナイダーのフルートとサックスソロが入るだけ。サンフランシスコの音楽評論家はこう書いている。「パフォーマンス全体は、多種多様なピッチのノイズの寄せ集めだ。観客は、どこで曲が終わったさえ分からないほどだった」

クラフトワークの循環的な作曲法さながらに、シュナイダーはこうした批判に茶々を入れた。「音楽には始まりも終わりもない」と彼は言う。「中には終わってほしいと思う人もいる。だけど、音楽はずっと続いていくんだ」