「みんなが幸せでいられる社会のために」というと、抽象的な言葉に聞こえるかもしれない。しかし、亡くなった母親が残した言葉として心に留めている娘にとっては、具体的な生きた言葉である。

 母親は、75年前の沖縄戦で自分の父親と長兄を亡くした。一家を養い、きょうだいを学校に行かせるために、自らが子守奉公に出て働き手となった。学問に触れる機会もなく、字も読めないまま嫁いだ。そんな母親が、のちに「日本母親大会」で何百人もの聴衆を前にして、米軍との土地闘争の現状を訴えた。

 女性差別は恐ろしい。同時に2人の命を奪っていたかもしれない。跡継ぎの男児を強く期待される中で、2人の娘を産み、3人目を身ごもった母親は「もし女の子だったら、この子を殺して自分も死のう」と思い詰めていた。離れ小屋でひっそりと出産した赤ん坊は、上の子どもたち以上に大きな産声を上げた。それを聞いて、生きていく覚悟を決めた。その娘がのちに、家族の窮状を救い、ゆるぎない平和活動者となる。

 娘はずっと、平和活動を「すごい母」任せにしてきた。親から米軍への抗議行動に誘われてもついて行かなかったし、土地闘争をしている家の子と思われるのも嫌だった。ところが突然、母親を事故で失う。ポッカリ空いた欠落は、自分がやるべきことだったと気づき、母から残された大きな課題だと受け止める。

 「やっぱり自分も学びたかった」とつぶやいた母親は、戦争や女性差別の苦難の中で、懸命に生きてきた。母親の闘う姿は、平和活動を体現している。宿った命が選別されることなく生を受け、爆音のない静かな環境で育ち、誰も傷つけず誰からも傷つけられないような世の中。一人の幸せが守られる社会こそが、「みんなが幸せでいられる社会」である。

(門野里栄子、大学非常勤講師