「能面」は「無表情」の代名詞でもある。コロナ禍で一億総マスク国家となり、お会いする人たちを見ていると、この「能面」を想像してしまう。アベノマスクが「小さい」と批判されるように、最近の一般的な不織布マスクは目のすぐ下からあごまですっぽり覆い隠すので、両目が表情のすべてとなる。

新聞やテレビの記者たちにとって、相手の言葉を聞くことと同時に、微妙な表情を読み取るのも大切な取材である。こちらの質問に苦虫をかんだり、表情がこわばったり、口元が動いたりすると、「何か反応が違うな」と感じる。「目は口ほどにモノを言う」が、口元や表情の微細な動きはもっと「モノを言う」。イエスかノーか、を知りたくて質問をぶつけ、その表情からうかがい知ることが、マスク越しではできない。人同士の接触を避けるため、にわかにテレワーク、リモートワークが脚光を浴びる。コロナが終わった後の、新しい「働き方」だという。取材活動やインタビューも画面を通じてやるのが「今風」らしい。だが、「取材は五感でしろ」と叩き込まれた者からすれば、邪道も邪道。画面を通じた会話は「見る」と「聞く」だけだから、においをかいだり、味わったり、触れたりという、その他の貴重な情報はシャットアウトされる。

こんなことがあった。高齢のお年寄りが早朝、道路を横断中にはねられて亡くなった。取材に駆け付けた記者が現場に立つと、あたりに漂うみそ汁のにおいを逃さなかった。聞くと、近くにいる知り合いが寝たきりで、このおばあさん、毎朝みそ汁を作って、運んであげるのが日課となっていた。単なる不注意での交通事故とは大きく違い、人情話にほろりとなる。記者がマスクで鼻の穴をふさいでいたら、この情報はキャッチできない。

大学の遠隔授業も花盛りである。パソコンを通じての授業の効果ばかりを論じる先生方が多い中で、毎日新聞が「記者の目」(6月24日付)で「遠隔化は大学の危機」と断じていて、思わず合点がいった。つまり、大学という教育の場は、単に教室で授業を受けるだけでなく、サークルや寮、研究室などに出入りし、興味の近い人間同士が長時間過ごし、交流することも、大切な学びの場となるというものだ。社会学の教授は、授業を「表のカリキュラム」とすれば、そうした授業以外でのさまざまな活動を「裏のカリキュラム」と呼ぶのだそうだ。言ってみれば、単にその講義を受けるだけでなく、教授や友人、先輩との交流などによって、幅広く学ぶ力を養うことこそ大学の本意であり、遠隔授業は知識を詰め込むだけではないか、との指摘だ。ごもっともである。

「アフターコロナ」「ポストコロナ」(コロナ後)の社会では、「新しい生活様式」がことさら喧伝され、ウイルスとの闘い方が、社会生活の基準であるかのようだ。しかし、何もウイルスだけが敵ではない。社会全体が「対コロナ」でモノトーン化していく時代や社会の風潮を、憂えなければならない。コロナで失っていくものは、意外に多いと思う。

サガテレビ解説主幹 宮原拓也