最新の国宝・松江城天守 日本の城を知り尽くした男が「6万6千分の5」の魅力を語る

最新の国宝・松江城天守 日本の城を知り尽くした男が「6万6千分の5」の魅力を語る

 日本に5つある国宝天守のうち、最も新しく国宝となった松江城(平成27年7月に指定)。編纂(へんさん)作業が進められてきた松江市史の別編「松江城」が今年3月に刊行されたのに合わせ、執筆陣の一人で城郭研究の第一人者、滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)が同市で講演。全国各地の2千以上の城を踏破した希代の“城マニア”が、松江城の魅力を熱く語った。講演の要旨は次のとおり。

1つの城で1冊の自治体史は、まれなケース

 全国各地で市史や町史などのいわゆる「自治体史」が多数刊行されているが、そのうち1つの城だけで1冊出している自治体がどのくらいあるか。私が知る限り、兵庫県姫路市(姫路市史別編「姫路城」)と石川県七尾市(七尾市史資料編「七尾城編」)、同県小松市(小松市史資料編「小松城」)。それに、今回の松江市史別編「松江城」しかない。

 このほかに、仙台市や滋賀県甲賀市など、市内の城跡を1冊にまとめた例はあるが、「一城で一冊」というのはまれ。逆に言うと、これらは住民にとって誇りの城だということだ。

 とくに松江市の場合、市史編纂自体が「松江開府400年」の記念事業。つまり、松江に城が築かれ城下が整備されたのを記念した事業として市史の編纂を始めたわけで、松江城編の制作中だった27年に天守が国宝に指定されたのも意義深い。

富田城に入ったが新たに松江城を築いた堀尾氏

 私たち城郭研究者の間では、関ケ原の合戦があった慶長5(1600)年から約10年間の城造りを「慶長の築城ラッシュ」と呼んでいる。合戦の論功行賞で大名の大規模な増減封が行われ、各大名が全国に移っていく事態になり、すべての労働力が築城に費やされたといえる時代だった。

 そこでは、2つの築城のパターンが認められる。1つは、既存の城に入って改修し、自らの居城とするケース。出雲国の隣、伯耆国(ほうきのくに)には中村一忠(かずただ)という大名がやって来て、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の居城だった米子城を改修して入った。また、小早川秀秋(ひであき)も宇喜多秀家(ひでいえ)の岡山城に、福島正則も毛利輝元(てるもと)の広島城にそれぞれ入った。

 もう1つは、いったん旧城に入るが、新たな拠点を作るケース。松江城の場合、堀尾吉晴・忠氏(ただうじ)親子がまず月山富田(がっさんとだ)城に入るが、城地を選定して松江で築城を行った。同様に、筑前に移った黒田長政もいったん小早川隆景(たかかげ)の居城だった名島(なじま)城に入るが、すぐに福岡城の築造を始めた。山内一豊も長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)の浦戸城に入ったものの、すぐさま高知城の築造に着手した。

出雲入りから築城開始に7年かかった松江城

 興味深いのは、堀尾親子の出雲国入りから松江築城までの期間が、黒田や山内らと違いとても長かったこと。堀尾が出雲に来たのは慶長5年11月だが、松江城の築造開始は12年だから、7年間もかかっている。黒田や山内らは翌年や2年後には築城を始めているのだが、堀尾親子にはいったい何があったのか、考えさせられる。

 さらに興味深いのは、堀尾の築いた「支城」。論功行賞で新しい領国に入った大名は1つの城だけで支配するのではなく、支城をいくつも構えて領国支配を進める。これは、右も左も分からない土地へ移された新しい領主が、旧領主についていた土豪らの一揆などにも注意し、隣国にも備えねばならないためだ。

 堀尾は松江築城と同時かそれよりも早く、支城の三刀屋(みとや)城を造る。また、松江に移ったあとの富田城も支城として使い、瀬戸山城なども築いて“支城網の貫徹”を図った。

 黒田も「筑前六端城」と呼ばれる支城網を築くなどしているが、堀尾親子と松江城築造前後の状況は、まさに慶長の築城ラッシュぶりを如実に示しており、魅力の一つに挙げたい。

複合式、望楼型の松江城

 国宝となった松江城天守の魅力について考えたい。従来の天守の分類方法には「天守の配置」と「天守の建築構造」によるものがある。

 配置による分類は「独立式」「複合式」「連結式」「連立式」という分け方。独立式は、天守だけがポツンと建つ形で、弘前城や丸岡城、丸亀城、宇和島城、高知城などがある。

 これに対し、天守の前に付櫓(つけやぐら)や小天守などが付随するのを複合式と呼ぶ。松本城や犬山城、彦根城、備中松山城、そして付櫓を持つ松江城も典型的な複合式天守だ。

 連結式は、大天守と小天守が渡櫓(わたりやぐら)や廊下でくっついているタイプ。残念ながら、典型例の名古屋城や広島城は、いずれも第二次大戦の空襲で焼失した。姫路城のように、大天守と3つの小天守がつながるのを連立式という。伊予松山城も連立式の代表例だ。

 天守の建築構造からは、「望楼型」と「層塔型」に分けられる。望楼型は、大きな入母屋造(いりもやづくり)の建物の屋根に2〜3階建ての建物を載せるというパターン。松江城はこれに当たり、年代的にはこちらが古い。

 層塔型は、三重塔や五重塔のようなもので、各重の屋根を四方に葺き下ろすパターン。望楼型よりもこちらのほうが新しい。

「II期」の現存天守は松江、彦根、姫路城のみ

 配置と建築構造以外に、「造営年代」に着目した分類をしたい。

 最古の天守の一つとされる安土城の天主(天守)が築かれた天正4(1576)年から関ケ原の合戦のあった慶長5年までを「I期」と考える。絶対的支配の象徴としての天守で、居住空間としても使われた。ただ、安土城や秀吉の築いた大坂城、岡山城など現存例がない。

 「II期」は、慶長5年から「一国一城令」が出された元和元(1615)年までの慶長の築造ラッシュに当たる時期。今では、「関ケ原の合戦以降、日本は平和になった」と思われがちだが、合戦以後の日本は徳川と豊臣の「最終戦争」がカウントダウンされ、恐らく戦国時代以来最大の軍事的緊張を生んだはずだ。

 加えて各大名は新たな領国での一揆なども警戒せねばならず、このためこの時期に造られた天守は、飾りではなく「戦う城」として軍事施設の性質を持っていた。この現存例は松江城と彦根城、姫路城しかない。

 そして、元和元年以降が「III期」。戦争がなくなってから造られた天守は、藩のシンボルとなる。

 12の現存天守のうち、松江、彦根、姫路を除く9つの天守はすべてこれに当たる。犬山城や丸岡城は「古い」とされているが、私は元和元年以降と考えており、III期の天守に分類しているが、今後の研究の進展によっては変わる可能性もある。

“6万6千分の5”の誇りと自信

 II期の天守に分類した松江城天守には、どんな軍事的特徴があるか。

 先にも触れた「付櫓」には、「石落とし」「狭間」などさまざまな仕掛けがたくさんあり、天守に入る前の段階で高い攻撃機能を備えている。

 石落としは、石を落とすのではなく、ここから鉄砲を撃っていた。狭間からは正面方向にしか撃てないが、石落としからは斜めに撃てる。

 また、籠城戦に備えて天守台の地階に井戸を設けている。このような、さまざまな工夫も松江城の魅力の一つだ。

 これらをまとめると、松江城天守は望楼式、複合式の天守であると同時に、慶長の築城ラッシュ時に築かれた城として、大きな意味を持つ天守といえる。

 しかし、なんといっても「城のあるまち」こそが大きな魅力だと言いたい。江戸時代、日本には6万6千の村があったとされるが、そのうち天守を伴う城をもっていたのは、わずか200。そのうち現存するのは12しかない。さらに、国宝の天守は5つだけ。「6万6千分の5」は、まさに地域の誇りと自信につながる。

 今回、こうした郷土愛の醸造につながる松江城の市史を刊行することができた。今後は、これを守り、伝えることが私たちや地元の人たちの重要な役目になっていく。

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