【二十歳のころ 高須克弥(2)】医学部時代ノート貸してくれた女友達が「YES高須クリニック!」考案した女房

【二十歳のころ 高須克弥(2)】医学部時代ノート貸してくれた女友達が「YES高須クリニック!」考案した女房

 子供のとき、いじめられっ子だった。だから『姿三四郎』のような映画をみて、柔道や空手の強い三四郎やライバル関係の檜垣源之助に憧れていた。それで東海高時代に柔道もやったの。柔道である程度の自信がつくと次は「打撃」を覚えようと、昭和医大で空手部に入ったわけ。

 拓殖大から教えにきていた師範クラスの先生の下で強くなってね。蹴りなども身についたんだけど、そうなると人間って力試しをしたくなるでしょ? でも僕の空手の流派は寸止めが基本だったし、外でけんかしたら警察沙汰になっちゃう。どうしようかと考えて、合法的にフルコンタクトができるアイスホッケー部をつくったの。

 最初はみんな軟派なスケートはできたけど、本格的なスケーティングができないやつばっかり。キーパーも誰も経験ないから野球部のキャッチャーを引っ張ってきて、ゴール前に立たせた。一応はキャッチャーだからしっかりと反応できるんだけど、一度倒れると一人で起きられなくなって大変だった。それでもチームはデビューした大会でいきなり関東3位。4チームのうち、東京医大のゴールキーパーが骨折して棄権。それで3位に入ったわけ。立派でしょ。

 ボランティア活動もやった。昭和医大は長野と富山の県境にある白馬岳(標高2932メートル)で遭難しかけた人を相手に診療所をやっていた。夏だけ開いて、無料で診る場所ね。本来は医師免許を持っていないと注射を打ったり、傷口を縫ったりできないんだけど、看護師がいないから免許のない学生でも当時は先輩の医者がいれば手伝いはできたの。入学したてなのに白衣を着て「僕は医者になったんだ」って。勝手に浣腸をやったり、点滴を打ったり。今なら指導する医師がいてもやっちゃいけないんだけどね。18歳で「先生」って呼ばれて気分が良かった。

 大学に入ると授業よりもマージャンをやっている時間の方が長かった。2年の時、経済学の授業を受けていると友達が「1人欠員が出たから参加してくれ」って呼びにきたの。こっそり抜けだそうとしたら先生に「そこの学生待て!」って追いかけられて全力疾走。逃げ切ったけど、あれは怖かったな。

 医学部の教授って本当に意地悪でね。教科書の内容ではなく、自分の講義に使った題材を試験に出してくる。それで授業に出たか出ないかが分かってしまう。そんなとき同じ学部の女友達が助けてくれたの。僕はほとんど雀荘で暮らしていたから、その子がきっちりと取っていたノートを借りていた。ちなみにその子が「YES高須クリニック!」のキャッチコピーを考案した僕の女房(シヅさん、2010年死去、享年65)。あのころはコピー機なんてないから全部書き写したんだけど、彼女のノートがあったから卒業できたんだ。 (あすに続く)

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