2020年の野球殿堂入りが14日、東京・文京区の野球殿堂博物館で発表され、特別表彰は1960年の東京六大学秋季リーグで「早慶6連戦」の死闘を演じた元慶大監督の前田祐吉氏、元早大監督の石井連蔵氏(ともに故人)が選出され、殿堂入りは計207人となった。

 ライバル関係にある早慶の名将が、そろって野球殿堂入りを果たした。

 石井連蔵氏は1958−63、88−94年の計13年にわたって早大を指揮。前田祐吉氏は60−65、82−93年の計18年、慶大を率いた。両氏の関係を際立たせたのは、石井氏が就任3年目の28歳、前田氏が1年目の30歳で迎えた60年秋の「早慶6連戦」だ。

 2歳違いで、ほぼ同時期に監督を務めた両氏は、若くして監督に就任し、チームの低迷期に再建を託され、再びユニホームを着た。

 石井氏の2度目の監督就任時の教え子で、4年時に主将を務めた早大・小宮山監督は「“鬼の連蔵”と呼ばれていたが、私にとっては“仏”。練習は厳しくても、言っていることに一点の曇りもなく、間違いがなかった」と振り返る。

 「守備練習中にゴロを最後まで追わない選手はグラウンドから出し、ネット裏に10日間、直立不動で立たせた。その後に練習に戻し、喜々とした姿でプレーするのを見て、それだという感じ。近寄り難かったが、その時代は当たり前の殴るとか蹴るとかはなかった」と当時を懐かしんだ。

 「エンジョイベースボール」を掲げた前田氏だが、厳しい一面もあった。2度目の就任時に教えを受けた慶大・大久保前監督は「(1)全員がベストを尽くすこと(2)仲間への気配り(3)自ら考えて行動すること−が3本柱。普段は温厚だが“瞬間湯沸かし器”の一面もあった。ブルペンで投球練習が始まったのに、捕手の私が気付かずに新聞を広げていると、飛び膝蹴りをされた。でも、夜には何もなかったかのようにマージャン卓を囲んで話をした」とエピソードを披露した。

 伝説となった「早慶6連戦」から、今年で60周年。天国の名将に吉報が届いた。 (松尾雅博)

1960年の早大主将の徳武定祐氏「石井監督は若い将校で怖い者なし、自分の信念でやっていた。1対1の2時間ノックもあった。戦えたこと、一球入魂を継承した監督の殿堂入りで感無量だ」

6連戦で4試合に登板した慶大の清沢忠彦氏「前田監督は『監督は庭師だ。あんまり、ちょこちょこ切っては駄目』といっていた。大局観が大切ということだろう。負けても、こうなった(殿堂入り)のは6連戦の値打ちが買われたんじゃないかと思う」

★早慶6連戦

 1960年秋季リーグ戦は、勝ち点4の慶大を勝ち点3の早大が追う展開。11月6日からの早慶戦を早大が2勝1敗で勝ち越し、両校が8勝4敗で並んだ。9日の優勝決定戦は延長十一回、1−1で日没引き分けに終わり、1日空けた11日も延長十一回の末に0−0。12日の再々試合を早大が3−1で制し、3季ぶり20度目の優勝を飾った。早大のエース、安藤元博(のちに東映、巨人で通算17勝。故人)は2回戦を除く5試合に先発し、すべて完投。計49回、564球を投げ抜いた。

石井 連蔵(いしい・れんぞう)

 1932(昭和7)年6月26日生まれ。茨城県出身。水戸一高から早大に進み、投手兼一塁手として投打に活躍。主将も務め、4年秋(54年)には首位打者と打点王の2冠に輝き、優勝の原動力になった。卒業後は社会人野球の日本鋼管を経て58年に早大監督に就任。63年に退任し、朝日新聞を経て88年に監督復帰。94年に辞任した。計13年間でリーグ優勝4度、59年には全日本大学選手権で優勝。2015年9月に死去。享年83。

前田 祐吉(まえだ・ゆうきち)

 1930(昭和5)年9月22日生まれ。高知県出身。城東中(現高知追手前高)のエースとして46年の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権)に出場。47年には選抜で4強入りした。慶大を経て、社会人野球のニッポンビール(現サッポロビール)に入社。60−65、82−93年に慶大監督を務め、計18年間で8度のリーグ優勝。63、87年の2度、全日本大学選手権で日本一に導いた。2016年1月に死去。享年85。