幕末の岡山を襲った大洪水で、百間川流域の27村の被災状況を記録した文書が、岡山県立記録資料館(岡山市北区南方)の所蔵資料から見つかった。村々を管轄する大庄屋が岡山藩への報告用に作成したとみられ、全半壊、浸水した家屋が計約1200軒に上るなど、甚大な被害を詳細に書きとめている。同館の定兼学特別館長は「過去の水害の被害実態を正確に伝える貴重な一次史料」と話している。

 文書は同館の所蔵資料展(8月8日まで)で初公開中。西日本豪雨を機に地域の災害史への関心が高まる中、注目を集めている。

 江戸〜明治期の水害をまとめた「岡山県水害史 上巻」(1901年刊行)などによると、1852(嘉永5)年8月22、23日の大雨で旭川や百間川が増水し、現在の岡山市中心部では濁流が堤防を越えて押し寄せた。岡山藩では水にのまれるなどして20人が死傷。家屋の損壊は全壊585軒、半壊308軒、浸水6680軒に上る。

 見つかった文書は、海面村(現同市中区海吉)の大庄屋だった小西治右衛門が記したとみられる。岩間村(同米田)、土田村(同土田)など27村ごとに、家屋のほか道や橋、堤防などの被害が書かれている。

 各村の集計もあり、「潰家(つぶれや) 八軒」「潰納屋土蔵共 七拾(じゅう)弐(に)軒」「水浸本家納屋土蔵共 千六拾三軒」「石橋土橋共破損 弐百拾六ヶ所」などと一帯の被害の全貌が把握できる。人的被害は書かれていないが、浸水家屋数は藩全体の被害の6分の1に当たる。

 同じ治右衛門が記した、避難者への炊き出し記録も残っていた。堤防が決壊して全戸が水に漬かった当麻村(同米田)の住民が、背後の宮山に避難した際、隣接する岩間村の寺院が、両村の被災者に担桶(たご)を使ってかゆを配ったという。ほかにも複数の村役人が食料を提供しており、窮地を助け合って乗り越えようとする「共助」の姿もうかがえる。

 定兼特別館長は「旭川の氾濫を防ぐため整備された百間川の流域でも、大きな水害が起きたことが分かる。過去の被災状況を知ることは、現代の防災・減災の備えを考える上で役立つはず」と話している。