人間が木から降りて「地上生活」を始めたのが約600万年前といわれる。そして、村を作り、定住生活を始めたのが約1万3000年前である。

ということは、人類は住居を定めず、あちこちと移動を繰り返しながら採集や狩りを行ったり、遊牧民として生活していた時間の方が圧倒的に長いことになる。

だから今の私たちが時々、移動不足を幻肢痛のように感じて、遊牧生活に憧れるのも不思議ではない。

スウェーデンのジャーナリスト、ペール・アンデション氏は『旅の効用: 人はなぜ移動するのか』(草思社刊)でこんなことをつづり「私たちの遺伝子には旅心が潜んでいる」としている。

■旅は人を成長させるのか?

アンデション氏のいう「旅」は、目的地も、ルートも、期間も決めず、「明日何をするか」のプランもなく、そして多くの場合一人である。「旅」というより「放浪」といった方が近いかもしれない。それは、事前に決めた観光地に向かい、そこを見て帰ってくる「旅行」とは似て非なるものだ。

思えば、私たちは「旅」に自分を成長させる要素を見出してきた。多くの人が「インドに行って人生観が変わった」といった言説や「自分探しの旅」といったワードを聞いたことがあるのではないか。しかし、本当に旅は人を変えるのだろうか?

アンデション氏は、本書の中でドイツのフリードリヒ=シラー大学のユーリア・ツィンマーマン氏らが行った研究を紹介している。

ツィンマーマン氏らは6〜9週間にわたって他のヨーロッパ諸国の大学で学んだ学生と自国内に居続けた学生合わせて1000人を対象にインタビューを行い、外国で一定期間過ごした経験が人格にどう影響を与えたかを調査した。なお、この研究では、本国ドイツと文化的な類似点が少ないアジアやアフリカへの渡航経験のある学生ではなく、あえて文化的に類似点の多いヨーロッパ内の他国に滞在した経験がある学生を対象にしたという。

インタビューで判断したのは「開放性」「友好性と思いやり」「誠実さ」「感情の安定度」「外向性」の5つの要素だった。

そもそも、外国旅行に行く決断をした学生は自国にいると決めている学生よりも外交的だったが、旅の前後で両者の相違は広がっていった。その研究によると、旅の前まで当たり前と思っていた事柄について新しい見方をするようになり、物事を高く評価するようになった。また、新しい体験に対して開放的になり、精神も安定し創造的になったという。

旅先で出くわす予想しない出来事やハプニング、トラブル。あるいはこれまで出会ったことのない種類の人々との交流。これらは、確かに人の精神に何らかの作用を与えるのかもしれない。ただ、それだけではない。

自身もインドを中心に世界各地を巡る旅を繰り返してきたアンデション氏は、「旅の効用」として「思考」をあげる。

私たちは、普段の生活のなかで考えたくない出来事や、様々なネガティブな感情を抱え、ふとした時にそれを思い出すと、反射的にそれ以上考えるのをやめてしまう。問題を解決するのを後回しにしたり、ネガティブな感情と折り合いをつけるのを避けているわけだ。

ただ旅をしていると、日常生活の問題や、感情面の葛藤と素直に向き合える瞬間があるようだ。自分をごまかさずに、考えたくないこともとことん突き詰めて考える時間を、アンデション氏は旅の中で持つことができたという。

家も家族も仕事もあるという状態で、アンデション氏のような旅をするのはなかなか難しい。そして、旅はそもそも大きなエネルギーを必要とする。ただ、それでもどうにか時間を作って、重い腰を上げて外に出てみると、「来てみてよかったな」と思えるもの。

『旅の効用: 人はなぜ移動するのか』でつづられているアンデション氏の旅の体験談や旅への考察を読めば「たまには一人旅でもしてみるか」と旅心に火がつくはずだ。

(新刊JP編集部)