伝説のOBたちがいま明かす、埼玉サッカー界が誇る“鬼マツ”松本暁司の奥深き生きざま──

伝説のOBたちがいま明かす、埼玉サッカー界が誇る“鬼マツ”松本暁司の奥深き生きざま──


 埼玉・浦和南高校創立時からサッカー部を指揮し、32年間の奉職中に多くのタイトルを獲得した。数多の名選手を育て上げた“鬼マツ”こと、松本暁司先生が9月2日、85歳で死去。教え子やサッカー関係者ら弔問、会葬者が引きも切らずに参列した様子は、言葉では言い尽くせない先生の偉大さを映し出していた。
 
 私が地元新聞社の運動部でサッカー担当になった頃、浦和南の最盛期は終わり、埼玉では武南と大宮東が盟主の座を争っていた。退任まで残り7年という松本先生はそれでも、浦和南への情愛をめらめらとたぎらせ、個を伸ばしながら試合に勝つ手段ばかりに思いを巡らせていた。
 
 往時の埼玉は1963(昭和38)年に就任した松本先生をはじめ、西野朗さんや川上信夫さんを育て、松本先生の1年後に浦和西へ着任した仲西駿策監督、さらに1年遅れで赴任して清水秀彦さんや田中孝司さんの恩師である浦和市立・磯貝純一監督が、まだ現場で情熱的な指導をしていた時分だ。ほかにもニューリーダーの若き大山照人監督が武南の勢力を拡大させるなど、大勢の名将と触れ合える環境にあった。
 
 そのなかでも、中学時代からカッコ良さに憧れていた浦和南を率いる松本先生と接するのは格別の思いで、初取材時の高揚感と緊張感をいまもほんのりと記憶する。

 
 先生は試合や練習、企画モノなど取材内容を問わず、腹の底から発する重厚な口調で、語るにつれて熱気を帯びてくるのが常だった。大きな身振りと手振りを交え、「あんな蹴り方をしているから決められないんだよ」「指導者は勉強不足、なにを教えているのかね」といったあんばいで敵も味方も関係なく、まず欠点・弱点・修正点の指摘に時間を割く。
 
 さらに私をFWに見立て「相手がこう守っているのに、こんな動きをしているから止められちゃうんだよ」と取材中の私の身体を動かしながら、実技指導することもしばしばだった。
 
 しかし、手厳しい言葉は選手やチームに対する怒りのはけ口では決してなかった。強くしたい、巧くなってほしい、世界と戦える選手とチームを育てたい──。先生は大きな視野を持って、こんな願望と憧憬を旗印にサッカーと向き合った。ゆえに他チームであっても骨があると見込めば、惜しみなく自分の経験と見識を伝えた。試合直後に対戦相手の監督を呼び、その場で指導者を指導することもあった。
 元日本代表の越田剛史さんは石川・金沢桜丘高校では無名だったが、松本先生が所用で当地を訪れた際に才能を見抜き、日本ユース代表の松本育夫監督に推薦。筑波大1年で出場した1979年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)を足掛かりに、日産自動車と日本代表で活躍するまでに至る。すべては松本先生のけい眼のおかげだ。
 
 武南がまだ強豪への道を模索していた頃は、若き熱血漢の大山監督に目を掛けた。静岡きっての古豪・藤枝東が浦和南に遠征してくると、武南に腕試しの機会を提供。今年3月に勇退した大山さんは「威勢のいい若い私を歓迎し、随分とかわいがっていただいた。よく練習試合に呼んでもらえたのも、まだ武南なんぞに負けないという絶対的な自信があったからでしょうね。うちが埼玉を獲るかもしれないのに、そんなことにはお構いなく鍛えてくれた。懐が深く、ほかの監督とは度量がまったく違った」と述懐したものだ。
 
 違ったのは度量だけではない。個を徹底的に磨いて組織を完成させる腕っこきの指導者でもあった。
 
 漫画『赤き血のイレブン』は浦和南が原型で、主人公は永井良和さんがモデル。1969年度、永井さんは2年生ながら全国高校総体(インターハイ)を皮切りに、国民体育大会を無失点で制し、総仕上げの全国高校選手権も勝ち、単独優勝としては史上初の3冠達成に尽力したエースFWだった。
 
 そんな英雄も1年生の頃は、ヘディングが下手で合同練習に最初から入れてもらえなかった。「毎日ペンデルボールでヘッドの練習ばかりやっていました」と笑う。3冠を獲得した時の全国高校選手権、苦しみ抜いた愛知・熱田との1回戦は、CKから永井さんが頭で決めたゴールが決勝点だ。「チーム作りと個を伸ばすのが上手く、当時の高校の指導者としては抜きん出ていた」と振り返る。

 
 空中戦の強さではJリーグを代表する選手だった田口禎則さんは、膝を半分曲げた体勢からジャンプヘッドの訓練をくたくたになっても反復。しかも練習場に指定されたのは砂場だ。「長所を伸ばすばかりか、限界さえ超えさせる教えですね。田口の武器は身体能力だと徹底的に鍛えていただいた」と感謝する。
 
 関西、首都圏をまたいで全国高校選手権2連覇に貢献し、OBとしては初めて浦和南を率いる野崎正治さんは左足キックが苦手だった。左も右足と同じように使えるための特訓が始まった。「先生が一緒になって何度も何度も指導してくれた。その甲斐あって左足で素直に蹴られるようになり、全国選手権では左足でゴールを決めました」と回想した。
 松本先生は埼玉大学卒業後、教員として県立春日部高校への赴任が内定していたが、ちょうどメルボルン五輪の日本代表候補合宿が大宮市であり、GKだった先生は初招集された。そこで県教育委員会は代表活動への便宜を図り、教員よりも自由に動ける浦和市教育委員会へ“移籍”してもらった。
 
 ここで勤務した4年間、竹腰重丸、高橋英辰、川本泰三という3人の監督時代、何度も日本代表に呼ばれ、1958年12月28日にマレーシアで行なわれたマラヤとの国際Aマッチに出場。二宮寛、渡辺正、川淵三郎といった後の日本代表監督とともにプレーした。『日本サッカーの父』と敬慕され、恩人でもあるドイツ人コーチのデットマール・クラマーさんの指導も受けている。
 
 3冠の前年、浦和南は全国高校選手権出場を逃したが、松本先生は主力になる5、6人を引き連れ兵庫・西宮球技場で決勝を観戦。「来年はお前たちがここに来て戦う番だ、というイメージを植え付けたんですよ」と、いまなら当たり前だが、当時としては先駆的な“課外指導”をしていたこともうかがった。

 
 首都圏開催に移行し、連覇を遂げた第55回全国高校選手権。東京・帝京との準決勝から国立競技場が舞台となったが、当時は高校生がプレーする機会などまずなかった。スタンドがすり鉢状になっていて、ピッチから遠近感や距離感がつかみにくい。優勝メンバーの水沼貴史さんは、「国立の大きさや雰囲気に慣れさせるため、キックオフの4時間くらい前に到着してトラックをぐるぐる隅々まで歩いて回った。先生の指示でした」と名伯楽の施術に感心する。
 
 日本代表を経験した高校チームの監督は、昔もいまもそう多くはない。松本先生が県立浦和高校を卒業した3年後、東京教育大(現筑波大)から福原黎三さんがその浦和高校に着任し、サッカー部を鍛えた。日本協会の犬飼基昭元会長や筑波大を強化した松本光弘元監督が教え子で、福原さんも竹腰監督時代の1955〜56年に日本代表に名を連ねている。
 
「勝ち方だとか、相手の弱点や攻略法のヒントなんかを選手にどんどん伝えましたよ。日本代表で学んだことも役に立った。当時そんな監督はどこにもいないし、普通の高校の指導者とは一線を画していた。教える内容も全然違った。浦和市教委の時に面倒を見ていた浦和市立の選手には、日本代表のことを話して将来の目標にさせたりもしましたね」(松本先生)
 
 永井さんはジェフ市原の初代監督のほか、アルビレックス新潟や横浜FCなど複数のJリーグクラブを指揮したが、永井さんに「有能な監督とは?」と尋ねたことがある。「いろんな要素があるけど、僕は試合をたくさん観ているひとだと思う」と答えた。
 そういえば松本先生から、浦和西時代の西野さんについてこんな逸話を聞いた。「自分の試合が終わった後も、(西野は)2試合くらい観察していた。生の試合を観ながらヒントを得たり、覚えたり、考えたりしていたんだね。そんな高校生はいなかったから感心し、必ずいい選手になると確信した」。ここでも目利きは確かだった。
 
 近年、埼玉の高校サッカー部の指導者は退職者も含め、浦和南の卒業生がもっとも多い。そのほか、第54回全国高校選手権優勝の立役者でもある日本協会の田嶋幸三会長をはじめ、サッカー界のさまざまな分野で活躍するOBは枚挙にいとまがない。松本先生の影響がとてつもなく大きかったから、サッカーを天職にしたひとが無尽蔵に存在するのだろう。
 
 田嶋会長は先生のこんな一面を弔辞で述べていた。
 
「私が中学3年の時、先生は浦和南、浦和西、浦和市立、浦和についてどんなチームかを説明しながら、個別に案内してくれました。『どの学校を選んでもいいんだよ。自分の好きなところに進みなさい』と言ってくれたのですが、私は初めから浦和南に決めていました」
 
 告別式の2日後に田嶋会長とお会いした折、「あの時の言葉が忘れられない。あんな先生はいませんよ。現役時代から指導者、協会などで従事してきましたが、あの出会いがすべての始まり。本当に素晴らしい先生でした」と大きな影響力を受けたことをあらためて口にした。

 
 浦和高校が1951年1月から52年1月まで、公式戦で引き分けもない52連勝という偉業を達成し、国民体育大会、関東大会、全国高校選手権の3冠(全国高校総体は実施前)を獲得した伝説のチームの一員、轡田隆史さんと昨年3月に酒を酌み交わした。
 
 私がサッカー部で松本先生の1級後輩だった轡田さんに先生の功績などについて水を向けると、「いろいろ聞いてきましたが、私は素晴らしい指導者だと思います。そうでなければ浦和南をあれだけのチームには育てられなかったし、多くの優秀な人材も出てこなかったでしょう」と先生の功労をこんなふうに表現した。
 浦和南は昨年度の第97回全国高校選手権・埼玉大会で17年ぶり9度目の優勝を遂げ、かつては推薦出場もあったことで17年ぶり12度目の選手権代表となった。
 
 野崎さんは筑波大卒業後、母校に赴任してサッカー部のコーチとなり、恩師とともに7年間後輩を指導。その後、新設の浦和東で24年間監督を務め、無名校を屈指の強豪にまで栄達させ、2013年4月にふたたび浦和南に戻ってきた。卒業生がサッカー部の監督になったのは野崎さんが第1号だ。
 
 松本先生は昨年、予選を戦う浦和南を毎回観戦した。昌平との決勝に逆転勝ちした後、埼玉スタジアムのベンチ前に現われ、野崎さんと握手を交わしながら「あめでとう」と労をねぎらったが、直後には「これじゃ全国大会は厳しいね」と苦笑した。「選手時代からいままで、一度も褒められたことがない。浦和東で選手権に5回、高校総体に7回出ても褒めてもらえなかった。まだまだだぞ、という先生の本意を励みにここまでやって来ました」と、大恩人の厳しさと優しさに謝辞を述べた。
 
「もっと話したかったし、いろいろ教わりたかった。指導者になって毎日グラウンドに出て、選手をじっくり観察することの大切さは先生から学んだ。劣勢の前半からハーフタイムを挟み、チームを変えられるのがいい指導者だと言われた。10分ほどのハーフタイムの大切さも勉強しました」
 
 心の古里である浦和南を、待ちに待った教え子が全国高校選手権に導いたのだから、野崎さんはいい恩返しができた。

 
 サッカーを離れ、酒の席でもゴルフ場でも先生の豪傑は変わらず、一緒にいて本当に楽しかった。たくさんのお話をうかがったなかでも、これぞ昭和の名将という言葉がこれではなかったか。
 
「彼らにはつらい思いをさせたけど、とにかく厳しく接して鍛え上げた。鬼だのクソマツだの言われていたことは知っていますよ。でも浦和の(普通科)高校で一番新しい学校ですからね、なにか強烈なインパクトを残したかった」と言ったそのときだけは、鬼のような顔つきだった。
 
 情熱家の指導者はいまも大勢いるが、“鬼マツ”のような監督が出てくる時代でないことが寂しいし、取材していてもどこか興趣を欠く。
 
取材・文●河野 正(フリーライター)


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