【あの日、その時、この場所で】川淵三郎/後編 日本中に根付いた緑のカーペット、夢のパイオニアとなった校庭(千葉・印西市立平賀小学校)

【あの日、その時、この場所で】川淵三郎/後編 日本中に根付いた緑のカーペット、夢のパイオニアとなった校庭(千葉・印西市立平賀小学校)


 川淵三郎(82歳)は「きょうみんなと撮った写真、後でツイッタ―に載せるから日本中で見られるよ」と、ツイッタ―の更新を子どもたちに予告した。

 すると、忖度なしの答えが返って来る。

「なんだぁー、世界中じゃないんだぁ」

 ごく自然にそう口にするような子や、まるで友達のように肩に手を回して記念撮影をする子もいる。それを見ている先生の方が、「な、なんという事を……」と、恐縮していた姿とは対照的に。しかし川淵は伸び伸びと振る舞う子どもたちの様子を、愉快でたまらないと言った表情で見守っている。

 4年生の女の子は「未来のなでしこジャパン」として、どうしてもアピールしたかったのだろう。サッカーボールを抱え「リフティング、たくさんできます」と、駆け寄ってきた。

「凄いね、リフティングは何回くらいできるのかな?」と聞くと、「2000回です」ときっぱりと返され、「槍の川淵」もこれには、「参ったなぁ、ボクが日本代表の時だって、まぁ200回ちょっとだったからねぇ」と笑い出した。

 穏やかな晩秋の午後、千葉県印西市にある平賀小学校の校庭に、実に19年ぶりにここを訪問した当時のJリーグチェアマンと、詳細はよく分からないけれど、とにかくとても有名な人が来てくれるようだ、と、無邪気に出迎えた子どもたちが楽しそうに交流する声が響き渡った。今年創立30周年を迎える同校には、どこにもない贅沢な風景、芝の校庭と、樹齢30年を越える大榎(おおえのき)が揃っている。川淵は「大榎と芝の校庭の風景が、何より強く印象に残っていた」と、当時と変わらぬ校庭に安堵したようだった。

 Jリーグチェアマンとしてリーグ開始から走り続けていた2000年、この年2つの小学校で見た芝の校庭を「7年目の大発見だった」と表現する。

 日本代表の強化のために発足したプロリーグは、5年目の1998年フランスW杯出場で悲願を果たし、企業が主導してきたスポーツ界に「地域密着」といった新しい概念をも浸透させた。しかしこれらの成果だけではなく、サッカーに対してだけでもなく、子どもたちの未来に、プロを誕生させた価値を還元しようと、校庭緑化の理想を常に抱いていた。
 
 しかし当時は校庭を芝生に、といっても「モデル」がなかなか見つからず、その素晴らしさを伝えようにもイメージしてもらうのが難しい。そんな2000年2月、鹿児島県指宿への出張中、偶然通過した道で、美しい芝を校庭に敷いていた池田小学校に出逢った。偶然見つけた指宿に続き、初めて手をあげ、存在を知らせてくれたのが、98年から芝の校庭を使用していた平賀小学校だった。きっかけは、近隣から寄せられた砂埃への苦情だったという。

 指宿の記事を目にした同小の佐藤光利校長から「一度、うちの学校にもいらっしゃって芝をご覧になりませんか」と連絡が入った。場所を聞くと自宅がある千葉ではないか。

「まさか関東圏で、しかも同じ千葉に、こんな立派な芝生のグラウンドがあるなんて夢にも思わなかった。初めて伺ったときまるで国立競技場の芝のように美しくて立派で本当に驚いたのを覚えている。佐藤校長は芝の育成について熱心に勉強をされていて、加えて芝で運動をしてもケガをしにくいから思い切り遊べる、裸足で走れば子どもたちの発育にも良い、砂や埃がたたない、などの効果も含めて情熱を持ってらっしゃった。池田小学校と平賀小学校の発信が、校庭緑化のために大変なPRとなった。パイオニアの2校のお陰で多くの関係者が視察に訪ねたでしょう。Jリーグの夢を叶えてくれてありがとう、そういう気持ちだったね。これがその時の写真か……あぁ、若かりし頃だ」

 97年、校庭を芝にする計画のスタートから、翌年の完成までのプロセスや、19年前の川淵の視察に関する記事や写真は今でも小学校の特別な部屋──「思い出ルーム」に残されている。63歳の自分を懐かしそうに追いながら、そう言った。

 芝は強い反面、わずか一晩で枯れてしまうほど養生が難しい場合もある。佐藤校長は当時、種まきから日の出前の水やり、また年間20万円ほどの低予算で芝の病気や害虫の駆除に奔走した。困難な時期はあったが、佐藤校長も芝に夢をかけた。学校関係者、PTAとの長年に渡る連携で、芝と大榎の特別な風景は今、子どもたちの毎日に溶け込んでいる。

 門脇英貴教頭は「皆さんに贅沢な風景といって頂きますが、うちの子どもたちは、芝の校庭を当たり前と思っていますから。ほかの学校は違うんだ、と驚くでしょうね」と笑う。「ワールドカップ」で子どもたちからも人気を集めたラグビーも、楽しめる環境はまだ整備されていない。しかし平賀の子どもたちは休み時間になると当たり前のように「きょうはラグビーやろうよ」と誘い合うのだという。

 2つの小学校が発信した波及効果は大きく、Jリーグの緑化プロジェクトはその後、川淵が2002年、日本サッカー協会(JFA)会長に就任してから自治体にも次々と広まっていった。子どもたちの心身の成長に着目した石原都政下では、公立全小学校の緑化を目標に、現在では公立小学校約280校が緑化され、小笠原諸島の2島、伊豆9島のうち8島の小学校にも芝生の校庭が整備された。
 
 JFAでは、ハードルが高そうに見える芝をもっと手軽に植えてもらうために「ポット苗」を無償で提供する芝生モデル事業「JFAグリーンプロジェクト」を2008年に始めた。提供は募集形式で、募集者は管理のための条件を整備する必要はあるが、ポット苗の送料と人件費を負担するのみで、植え付けの指導もJFAのインストラクターが行う。

 2019年には提供したポット苗の数が730万個を超え、芝生化された施設は450、総面積も約190万平方メートル、サッカーのピッチに換算すると267面にも達する。日本代表強化の拠点として千葉の海浜公園に建設中の「高円宮記念JFA夢フィールド」のピッチ1面も、ポット苗方式で養生された。

 子どもたちは、芝生を前にすると必ず「でんぐり返し」をし、寝転んで歓声をあげる。数多くの完成披露に立ち合ってきた川淵も、その「大好きなシーン」でよく目を潤ませる。
 
 校庭緑化を共に夢見て実現した平賀小学校の今を訪ねた特別な日、川淵は小学校6年生たちと記念撮影を終えると「みんなはもう6年生だからちょっとお話しますね」と、予定にはなかった話を芝の校庭で始めた。子どもたちに直接話す機会などめったにないはずだ。

「僕はね、東京オリンピックに出たんだよ。それで、アルゼンチンという強い国に3対2で勝った試合で1点取った。大学受験に失敗して2年も浪人したんだけれど、浪人している間、サッカーばっかりやっていたんだ。当時のサッカーは今みたいに盛んじゃなくて、というよりとっても地味で、それにプロなんてなかったでしょう。でもこの時期、サッカーがもの凄く好きになって、本当に大好きになって……毎日、毎日練習に通った。そうしてある大会に出た時、川淵っていい選手じゃないか、早稲田大学に行ったらいいんじゃないかって言われて2浪で入学して、そこから僕のサッカー人生が始まりました。
日本リーグで選手をして、Jリーグを作ることになって、サッカー協会の会長も、バスケットボール協会にも携わった。みんなに言いたいのは、あの頃僕は何を考えていたのかなんてさっぱり覚えていないし、何になろうかだって考えてもいなかったと思う。でもね、とにかくサッカーが大好きで面白くて、楽しくって一生懸命やったんだね。だから今の人生がある。何か1つ、それがスポーツでも勉強でも音楽でも文化でも何でもいい。楽しくって、やりたくてしようがない。心からそう思えるものが見つかればいいね。頑張って下さい」

 2DKのアパートで構えたJリーグ最初の事務所(千代田区・九段北)、スポーツ史に残る渡邉恒雄氏(読売新聞社当時社長)との「独裁者合戦」が始まったプレスクラブ(千代田区・日比谷)、そしてサッカー文化が全国に強い根を張る象徴的な存在となった芝を、全国に先駆けて育てた印西市・平賀小学校。

 あの日、その時、この場所を巡った「小さな旅」の終わり、子どもたちは、川淵の話に身じろぎひとつせず、聞き入っていた。
 
取材・文:増島みどり(スポーツライター)
 


関連記事

SOCCER DIGEST Webの他の記事もみる

あわせて読む

主要なニュースをもっと見る
社会のニュースをもっと見る
経済のニュースをもっと見る
政治のニュースをもっと見る
国際・科学のニュースをもっと見る
エンタメのニュースをもっと見る
スポーツのニュースをもっと見る
トレンドのニュースをもっと見る
生活術のニュースをもっと見る
地域のニュースをもっと見る

スポーツ アクセスランキング

ランキングの続きを見る

スポーツ 新着ニュース

新着ニュース一覧へ

総合 アクセスランキング

ランキングの続きを見る

東京 新着ニュース

東京の新着ニュースをもっと見る

東京 コラム・街ネタ

東京のコラム・街ネタをもっと見る

特集

特集一覧を見る 動画一覧を見る

記事検索

トップへ戻る