2009年、10年と2年連続でJリーグ得点王に輝いた前田遼一が、高卒でジュビロ磐田に加入したのは2000年。翌01年には9試合に出場し、途中出場でピッチに立った第2ステージ1節の清水とのダービーマッチでプロ初ゴールを挙げた。

 相手DFの股を抜き、GKをかわしての技ありゴールはチームの勝利を決定づける3点目。秘めた才能を披露した若きアタッカーを祝福しようと集まった先輩たちを前に、しかし前田はひたすらこう言い続けたという。

「どうも、すみませんでした」

 当時、ピッチの中央で攻守のタクトを振っていた名波浩は後日、この時のことを「ゴールを決めて味方にあやまるヤツなんてなかなかいないよ」と笑って振り返った。だが、前田にしてみれば、ピッチ上でチームにかけていた迷惑はゴールひとつ決めたからといって拭えるものではなかったらしい。

「自分が試合に出ると、無理やり前に運ぼうとしてボールを取られたりして、攻守の流れを悪くしてしまう。周りが全然見えていなくて、チームの意図と反したことが多くて、そういう時は先輩たちにボロカスに言われたし、本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった」というのが、その頃の偽らざる心境だったという。

 後に絶対的エースとして磐田を牽引する前田のこの言葉は、01年、02年と年間わずか3敗という戦績でJリーグを席巻し、今もクラブ史上のみならず、J史上最強とうたわれるジュビロサッカーの質の高さの証のひとつと言えるだろう。
                                    ■
 まるで全員がひとつの脳で繫がっているかのように、攻守両面で緻密に連係・連動し、阿吽の呼吸でプレーする。勝利を重ねただけではなく、観る者を魅了してやまない最強時代の磐田のサッカーは、2000年秋の鈴木政一監督の就任と新戦術の導入が契機となり、誕生した。
 
 それまでの6〜7年間、メンバーの入れ替わりはほとんどなく、同じ顔ぶれの日本人選手が先発を続けていた磐田は、97年に初めてJリーグチャンピオンになって以来、常に優勝争いを演じる強豪の座を確たるものにしていた。01年、就任2年目の鈴木監督は自分たちのサッカーをもう一段上のレベルに引き上げるために、「よりアグレッシブで、クリエイティブで、超攻撃的」なスタイルの確立を目指した。

 自在にパスを繋いで中盤を制し、相手を疲弊させる攻撃力は、すでに磐田のカラーとなっていた。新しくチームに植えつけられ、強さの肝となったのは、前線からの組織的なプレス。リアクションではなく自らアクションを仕掛ける“攻撃”としての守備だ。

 ピッチに立つ選手たちが同じ意図を持って相手のボールホルダーをサイドに追い込み、そこで数的優位を作り、高い位置でボールを奪取する、あるいは相手の攻めを遅らせてパスコースを限定させる。マイボールになったらゴールを陥れる絵図を全員が瞬時に共有し、素早く攻め込む。「ボールの位置や味方の動きによって、全員が常にポジションを細かく修正しなければならないので、一瞬も息が抜けないし、ひとりでもサボッたりチームの意図を見失うと崩れてしまうので難しいことは難しい」と監督が語ったように、新戦術の体得は、無論簡単ではなかった。

 鈴木監督は、最初は個人、次にグループで守備の共通意識を持ち、自然にチーム全体の戦術理解とプレー精度を上げるプロセスで新たなチーム作りを進めていった。しかし、キャンプで最初に試みた時は、選手たちは拒否反応や戸惑いを示した。
 
 指揮官はチームリーダーたちと話し合い、「今までより一段階上のことをやろうとしているのだから壁があって当然だが、やる前から放棄をするな、やり切ってみたところでどうしてもダメなら元に戻す」と説得。連動が上手くいかなくても、とにかくプレスをするために動くことを求めた。

 一方的に押しつけるのではなく、選手の気持ちを慮りながらの指導は鈴木監督の優れた手腕のひとつ。真剣なミーティングのあと、「やってみようよ」と言ったのは中山雅史だった。後輩たちに常に自分の限界をも超えて努力する姿を見せ続けてきたエースの言葉に選手たちは納得し、貪欲に新しい戦術に取り組み、わずかな期間で見事に花開かせた。

 初めて新たな強さがピッチに鮮明に描かれたのは、01年の第1ステージ4節、国立競技場での鹿島戦だった。思惑通り相手ボールになってもすぐに奪い返してゲームを支配し、それまでJリーグの2強として数々の頂上決戦を戦ってきた難敵にほとんど何もさせずに2-1で完勝した一戦は、いまも語り種だ。

 そもそも、鈴木監督がすでに強豪の地位にあった磐田に新戦術を施したのは、なぜか。ひとつには、成熟の域にあった選手たちに新たな挑戦をさせることで成長へのモチベーションの停滞を防ぎたいという思いがあった。さらに、個の守備力が弱いというウイークポイントを、チーム戦術を整えることで補い、守備力を高める狙いがあった。そして、そこには夏に迎える未体験の大一番への逼迫した危機感があった。
 
「中盤の顔ぶれを見た時、攻撃が得意な選手が多い。逆に言えば、守備の場面で1対1になるとあまり強くない。Jリーグではそれでも通用したかもしれないし、それまでのサッカーでもよかった。しかし、『世界』ではそれでは通用しない。その試合を想像してみたら、サイドの1対1のシーンでは全部相手に破られるだろうと。相手はセンタリングもゴール前のスキルも高いし、一発で失点する。そうなったら手も足も出ない。だから、そこで時間をかけさせようと考えた」

 鈴木監督が、新戦術導入の理由に挙げた『世界』とは、当時、異次元の強さとタレントで銀河系軍団とうたわれたレアル・マドリーとの一戦のことだ。99年、磐田は97年のJリーグ覇者としてアジアクラブ選手権に出場し、優勝。01年7月にスペインで開催される五大陸王者が世界王座を争う第一回世界クラブ選手権にアジア代表として出場し、グループリーグでマドリーと対戦することが決まっていたのだ。

 5月に世界クラブ選手権の延期(結果的には中止)が急遽発表され、残念ながら対戦は幻に終わったが、マドリー戦が予定されていなければ、新戦術導入はなかっただろう。そう考えると、98年から99年にかけて、Jリーグやカップ戦をこなしながらの超過密日程で広大なアジアを遠征して勝ち続け、10万人の敵サポーターで埋めつくされた敵地での決勝でイランのエステグラルを破り、Jクラブとして初めてアジア王座に就いたことこそ、“最強の磐田”を生み出す要因だったと言える。
 
 01年、02年のサッカーは、観る者に極上の楽しさだけではなく、長年ともにプレーして気心が知れているとはいえ、なぜ言葉もなく以心伝心であれほど淀みなく流麗なサッカーができるのか、不思議さも感じさせた。中盤を支えた名手のひとり、藤田俊哉はその秘訣を問われ、「どうしてできたのか、どうやっていたのかを言葉で説明することはできない。ただ、誰がその時に何をしたいか、チームが何をするか、本当にみんな分かっていた感じだった」と答えた。

 選手たちがあまりに何気なく、自然にプレーするので当時は気づきにくいが、鹿島戦後も進化を続けた流麗なサッカーの裏には、見えないところで選手同士か話し合い、要求し合い、ときにぶつかり合いながら、戦術とお互いを理解し、お互いを活かすための膨大な作業があったことは想像にかたくない。藤田は、「白鳥みたいに水面下でバタバタしていても、水の上でのピッチでそれを見せる必要はないから」とも言っている。

 今年の4月、02年の“完全優勝”を決めた第2ステージ・14節の東京V戦がダゾーンでオンエアされた。解説は、最強時代にサイコロの5の目の形をした中盤の中央やトップ下で活躍した名波氏。この日、かつての司令塔は、優勝に喜ぶチームの映像に、多くのファンが腑に落ちるだろう、こんな言葉を重ねた。
 
「このチームは強いとか、上手いとか、そういう言葉で括ってほしくない。この集団はサッカーをよく勉強したチームだったと思っている。全員のサッカーに対するあくなき探求の付属として、タイトルがいくつかついてきたと解釈している」
                                      ■
 01年のダービーでチームの流れに乗れず、ゴールを決めても喜ばなかった前田は、その後も先輩たちの背中を追い、多くを吸収し、彼らがチームを去った後もサッカーへの探究心を人一倍燃やし続けた。

 代表選手になってもその一徹さは微塵もブレず、チームでたとえハットトリックを決めても、それ以外の自分のプレーに納得がいかなければ、試合後に笑顔を見せることはなかった。やがて中盤でゲームを組み立てながらフィニッシャーとしてゴールを量産する規格外のストライカーに成長。10年、磐田の最後のタイトルとなるナビスコカップ優勝の立役者となっている。

高校時代は1・5列目のドリブラーとしてならした前田にとっても、選手としての転機は、01年の磐田のサッカーとの遭遇にあったかもしれない。

取材・文●高橋のぶこ

【インタビュー未公開PHOTO】ジュビロ磐田 小川航基|水戸での武者修行を経て、9番を背負いエース宣言!チームをJ1復帰へ導けるか!?