新型コロナウイルス感染拡大にはっきりとした出口が見えないなか、世界のフットボールもごくわずかの例外を除き、その火が消えている。

 選手をはじめとする関係者の感染、リーグ戦など各種大会再開の度重なる延期、その影響による経済的打撃……。フットボールがこれほどの危機に瀕したのは、英国で1863年に統一ルールが作成されて以来、初めてとさえ言える。

 もちろん、第一次世界大戦(1914〜18年)、第二次世界大戦(1939〜45年)も、フットボールどころではなかった。とはいえ、戦時下でもスポーツは細々と命脈を保っていたし、戦禍の影響を直接受けなかった南米では、人びとがコパアメリカ(南米選手権)に熱狂していた。

 今回のパンデミック(感染症の世界的大流行)とよく比較されるのが、いまから約100年前、主に1918〜20年に発生したいわゆる「スペイン風邪」だ。スペインが発生元ではないが、第一次大戦中は中立を保った同国から盛んにこの病気に関するニュースが発信されたため、この名が定着したと言われる。他の欧州諸国でも猛威を振るったが、戦時中の士気低下を避けるために、報道は抑制されたらしい。なお、スペインでは国王アルフォンソ13世も罹患。1920年にマドリーFCがレアル・マドリーへ改称した際、クラブに「レアル(王の)」の称号を授けた王様である。

 スペイン風邪はその関連も含め、世界で4000万とも5000万ともいわれる命を奪った。南米では1918年にブラジルで開催予定だったコパアメリカが、翌年に延期された。大戦の戦勝に沸く英国でも、20数万人の死者を出したという。しかし、現代とは違って、フットボールに中断の気配はなかった。早くにカラム・ハドソン=オドイの感染が確認されたチェルシー(イングランド)の公式サイトで、クラブ史家のリック・グランビル氏が1世紀前の状況にスポットを当てていた。

 
 当時、全国規模のフットボールリーグは大戦の影響によって1914−15シーズンを最後に中断しており、クラブは狭い地域での活動を余儀なくされていた。チェルシーはアーセナルやトッテナム・ホットスパーなどと共に、ロンドン・コンビネーションという大会に参加していた。グランビル氏によれば、ホームのスタンフォード・ブリッジには2万人以上の観客を集めていたようである。

 感染防止のための、ソーシャルディスタンスの概念はすでにあった。鉄道やバスといった公共交通機関の密集を抑え、咳は口をハンカチで覆い、病気の人の隔離、握手やキスを避けるなどの注意喚起がなされていた。

 一方で「(試合の)中止は議論に上っていなかった、議会でもね。関係者は戦前の状態に戻すことに懸命だった」とグランビル氏。劇場なども同様で、記録的興行収入を上げていたところもあるという。

 長かった戦争がようやく終わり、娯楽を求める人びとの意識には抗し難かったのだろうか。
 グランビル氏は第2部で、元チェルシー選手の悲しい出来事も伝えている。1918年12月に29歳の若さで亡くなったアンガス・ダグラスという選手の話だ。

 死亡時はニューカッスル・ユナイテッドでプレーしていたが、チェルシーには期待の若手として1908年に加入。右ウイングのポジションで1911−12シーズンの1部昇格や、1911年のFAカップ準決勝初進出に貢献したという。その活躍が認められてスコットランド代表にも選ばれた。

 そのダグラスが感染したばかりか、不幸にも4歳年下の妻もウイルスの標的に。夫妻は別々の部屋に隔離されていたが、まず妻が亡くなり、3日後にはその後を追うようにダグラスも逝ったという。二人の間には生後約8カ月の娘がいた。

 イングランドでは1919年9月に戦前のようなフットボールリーグが再開した。ディビジョン1ではウエスト・ブロムウィッチ・アルビオンが優勝。バーンリーが勝点9差で2位となり、チェルシーが3位、リバプールが4位で続いた。

 ところで、この年は日本サッカーにとっても重要な出来事があった。3月にFA(イングランド・サッカー協会)が日本にシルバーカップを寄贈したことが報じられ、それが2年後の大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)創設、全国優勝競技会(天皇杯JFA全日本サッカー選手権大会)スタートにつながっている。

文●石川 聡