2008−09シーズンのチャンピオンズ・リーグ準決勝チェルシー戦で、ゴール右隅に突き刺したアンドレス・イニエスタの同点弾。アウェーゴールの差でバルセロナを決勝進出に導いた終了間際のこの劇的なゴールについて、相手GKのペトル・チェフは「18ミリの差」で手をかすめたと、楽天TVで配信中の「アンドレス・イニエスタ-誕生の秘密-」――スペイン語タイトル「El heroe inesperado(意外なヒーロー)」――で述懐している。

 このドキュメンタリーの脚本を手掛けたのが、一般紙「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」の記者、マルコス・ロペス氏。伝記「La jugada de mi vida(私の人生のワンプレー)」を執筆するなど、イニエスタ・ファミリーに関するエピソードを書かせたら右に出る者のいない敏腕ジャーナリストだ。

 イニエスタのプレーには良質な麺のようなフワッとした肌触りを感じさせる。その振る舞いがどこか哀調を帯びているため、競争心とは無縁の柔和さや華麗さが強調された。ただ、彼自身はそうした周囲のステレオタイプの見方をことさら嫌った。

 背中に目がついているかのように、相手がどこから寄せてきているのかを常に把握しながら、彼にしかできない滑らかなタッチでボールを運びながら、相手DFをするするとかわし続けた。
 
 時にその姿は、ボールを扱いながらDFラインのわずかな合間を縫って踊る綱渡り曲芸師のようにも見えた。たしかにその芸術性の割に、得点は少なかった。キャリアを通じて、ゴール前での怖さに欠けているという評価が常に付きまとった。しかし、その一方でイニエスタのゴールには印象に残るものが多い。

 完璧さを求めるあまり、自らもゴール前の詰めの甘さという課題と対面し、ファンの愛情に飢え続け、数々の怪我やアクシデントに苦しんだイニエスタのキャリアは、様々な葛藤や満たされない感情を抱く毎日の繰り返しでもあった。

 それだけに、その中でもぎ取った得点は、数は少ないながらもドラマ性があった。冒頭のチェルシー戦の劇的弾、スペイン代表を初の世界王者へと導いた2010年ワールドカップ決勝での千金弾、そしてバルサでのラストシーズン、コパ・デル・レイ決勝のセビージャ戦で有終の美を飾ったゴール、その一つひとつにイニエスタの思いが詰まっていた。
 いまイニエスタは妻アンナさんと4人の子供たちと一緒に、神戸で幸せに暮らしている。古巣のバルサは彼の不在に今なお苦しみ続けているが、もはや過去に戻ることはできない。彼自身もこう語っている。

「人は失ってみて、初めて物事の真の価値を知ることができる」

 マルコス・ロペス記者の故郷ウエルカル・オベラはイニエスタの故郷フエンテアルビージャに近い距離にある。イニエスタがバルサに在籍していた時もふたりの自宅は近距離にあった。こんなところからも、ふたりのフィーリングの良さを感じさせる。我々を楽しませ続けてきたイニエスタが今度は、周りの人間がそのプレーや人柄をどう批評するかを鑑賞する側になった。

 チェフの「18ミリ」というのはほんのわずかの差であるが、それを具体的に示したことがミリ単位へのこだわりを見せ続けた完璧主義者、イニエスタの人となりを象徴しているかのようでもある。

 イニエスタは不世出のプレーヤーだ。そんな名手に相応しく、このドキュメンタリーは54名の豪華な顔ぶれが登場するが、しかしそのストーリーは肩肘張ったところはまるでなく、実にスムーズに進行する。そう、イニエスタという人間が常に自然体で振る舞うように――。

文●ラモン・ベサ(エル・パイス紙)
翻訳●下村正幸

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