大宮アルディージャにとって特別な人物が6月27日、この世を去った。

 クラブのJリーグ入りに力を尽くし、長年にわたって支えてきた、さいたま市サッカー協会理事長の松沢喜久夫氏が享年68歳で永眠。チームは7月11日にホームのNACK5スタジアム大宮で行なわれる東京ヴェルディ戦で喪章をつけて戦う。

「松沢さんがいなければ今の僕がいないと言っても過言ではない」
 
 そう話すのは“大宮のレジェンド”、地域プロデュース部コーチの金澤慎氏だ。大宮ユース1期生の金沢氏は昨季に18年間の現役生活を終えた。東京ヴェルディ1969に期限付き移籍の2年間を除く、16年間をオレンジのユニホームでプレー。大宮への愛着は人一倍強く、「松沢さんが引いてくれたレールの上を進ませていただいた」と別れを惜しむ。

 1996年12月、Jリーグは99年から2部制になると発表。大宮市出身の松沢氏は同市サッカー連盟有志代表として招致へ乗り出す。97年1月に『大宮にJリーグ呼ぼう会』を立ち上げ、署名活動をスタート。松沢氏らの奔走により、署名は5万人近く集まった。5月に大宮市長へ要望書とともに提出し、6月にはNTT関東支社にJ2加盟申請の要望書を渡した。

 当時、NTT関東サッカー部監督を務めた清水隆氏(現大宮シニアマネージャー)は「僕が会社へ、松沢さんは行政を中心に働き掛けてくれた」と“戦友”との日々を振り返る。NTT関東サッカー部は8月にJリーグへJ2の参加申請し、12月に承認。清水氏は「『絶対にプロ化しよう』と一緒に頑張った。松沢さんがいなければ大宮はない。偉大」と回顧する。

 99年のJ2参戦が決まり、“大宮アルディージャ”が誕生。それは地元のサッカー少年たちに夢を与えた。

 中学時代に署名活動にも参加した金沢氏は生粋の“大宮っ子”。隣の浦和市からは93年の開幕時に浦和レッズが参入しており、「大宮にプロチームができて、浦和と対戦するのが大きな目標になった」と金沢氏。埼玉の名門・武南高校出身で大宮の育成部ヘッドオブスカウトの斉藤雅人氏は、「Jリーグでプレーできる可能性があるのは魅力的」と98年に駒澤大からNTT関東サッカー部へ入った。そして、ふたりの願いは叶う。
 
 松沢氏は大宮の後援会も発足して初代理事長に就いた。現理事長の染谷伊久夫氏は松沢氏が社会人サッカーチームでプレーしていたころからの仲。ライバルチームの選手として出会い、約45年に渡る付き合いだった。大宮青年会議所メンバーの染谷氏は松沢氏と並走するように大宮をサポートし、「松沢さんはサッカーと大宮が大好きな人」と偲んだ。

 埼玉県サッカー協会会長で前大宮社長の鈴木茂氏は、松沢氏と「よく意見を交わし合った」と懐かしむ。“地域密着”について多く議論し、「地元を盛り立てようと意欲があった」と言う。松沢氏はNTT社員向けサッカー大会の審判派遣でも力を貸すなどし、さいたまサッカー界の重鎮の早すぎる旅立ちに「大きな損失」と寂しがった。

 大宮公式ホームページには森正志社長の追悼の意を掲載。新型コロナウイルスの影響による約4カ月の中断期間を踏まえ、「当然のように過ごしていた日常は、松沢氏の熱い思いによって築かれたものです。同氏の多大なる功績にあらためて敬意を表すると同時に、必ずや皆さまとともにJ1昇格を果たしたいと強く願います」などコメントした。

 試合告知のチラシ配りを手伝う地道な取り組みも続けた松沢氏。大宮への深き思いは次世代に受け継がれていく。

 OB会長でもある斉藤氏は葬儀にOB会で供花を贈り、「松沢さんの思いや行動がなければ、このクラブは存在しなかったかもしれない」と感謝。「原点、出発点の方の思いを僕らは幸いにして身近に感じられた。これからは(その思いを)知らない選手が増えてくると思う。僕らが語り、つないでいく使命がある」と継承を誓う。

 金沢氏は「地元の方に応援していただいて、育った街のプロ選手としてプレーできたことは誇り」と感慨に浸る。自身のような選手を「僕の経験を通して、さいたま市、特に大宮地区から輩出したい」と意気込む。「そういう選手が出ることによって子どもたちに夢を与え、大宮を愛し、応援してくれる方々ももっと増える」と青写真を描いた。

 松沢氏が切り開いた、未来へと続く希望の道。刻んだ歴史の数々は決して色あせることはなく、大宮を愛する者たちの手でさらなる広がりを見せてくれるだろう。空の上で、ずっとずっと、見守っていてほしい。

取材・文●松澤明美(フリーライター)