ヤットは気のおけない、20年来の親友である。「出会ってからず〜っと変わらない。とにかくブレないんですよ」という言い回しからも、どこか優しさが滲み出る。
 
 年代別代表でともに切磋琢磨し、ガンバ大阪で共闘するようになってからは、家族ぐるみの付き合いだ。同学年の息子同士が同じチームでサッカーボールを蹴り、奥さん同士も仲が良い。ピッチ内外で、厚い信頼関係を築いてきた。
 
 鉄人、遠藤保仁とはいったい何者なのか。現在ガンバでヘッドコーチを務める山口智に訊くのが、やはり手っ取り早いだろう。

 盟友は偉業達成を目前に控えた40歳MFの素顔を、次のように明かしてくれた。

「マイペースで淡々としている。それもヤットの正しいイメージかもしれないけど、もともと負けず嫌いで、やられたらやり返す、勝負にこだわる熱いものが根底にあるんですよ。サッカーのために準備するんじゃなく、ヤットの場合は日頃の自然の生活がひとつのサイクルになっていて、すべてがつながっている。それが試合でピタっとハマって、また同じサイクルを繰り返すなかで、どんどん確立されていったんだと思う。試合に出続けて、怪我もしない身体になっていってね。

 周りから見たらそれは『努力』になるんだけど、本人にしてみれば、ごく自然の『普通』のことだったんじゃないですかね」

 そしてひとつ年上の元日本代表DFは、「自分のなかでのベストを探すのが抜群に上手いんですよ。そのベストを信じてるから迷いがない」と讃える。「これだけのことをやってきたのだから、驕っても勘違いしてもいいはずやけど、絶対にしない。そこがヤットの魅力なんですよ」とさらに持ち上げ、笑みを浮かべた。

 J1リーグ最多出場の新記録となる632試合出場まで、あとひとつのタイミングで話を聞いた。

 しかしながら当の本人は、なんともあっけらかんとしていた。

 
◇       ◇       ◇

「正直言うとあんまり、特別な感情はないかな。気づいたらここまで来た、って感じかもしれない」

 2月23日に行なわれた今季J1リーグ開幕戦、横浜F・マリノス戦で先発出場を飾った。21年連続での開幕スタメンは前人未到の記録で、楢崎正剛が持っていたJ1最多出場記録である「631」に並んだ。

 ヤットはこの数字に到達するまでの間、むしろ「あらためてどんだけすごい人たちがいたのかを実感した」という。そして「セイゴウ(楢崎)さんのほうがよっぽどすごい」と絶賛するのだ。

「自分で自分がすごいとは思わない。当の本人やからね(笑)。20年くらいやってないと超えられない記録やから、それは自分でもようやってるな、長くやってるなとは思うけど。

 やっぱり思うのは、セイゴウさんすごいなってところ。ここに到達するまでの1、2年間、すごく感じてきた。やっぱり年を取れば取るほど試合に出るのが難しくなるし、ひとつ間違ったらガタガタって崩れるからね。俺に言わせたら、フィールドもキーパーもないやろって思う。むしろキーパーのほうが大変でしょ。1枠しかないから。俺らは逃げ道が2、3個あるし、途中からでも出れるけど、キーパーはそうはいかない。(J1通算593試合の)ユウジ(中澤佑二)にしてもすごい。逆に周りのすごさを実感しながら、ここまで到達したって感じかな」

 褒め称えるなら、むしろ別のデータにしてほしいと切望する。このあたりがいかにもヤットらしい。

「631試合中、だいたい600試合くらいは先発で出てるんじゃないかな(編集部・注/2020年7月22日時点で606試合)。これは自慢じゃないけど、自分でも誇れる数字やし、なかなかできないものやと思う。あとは去年、全公式戦で1000試合出場を達成した(編集部・注/2020年7月22日時点で1019試合)。こっちのほうがよっぽどの記録やと思うんやけど、扱いは小さい(笑)」
 J1通算&キャリア通算の大記録において、偉大な第一歩がしるされたのが1998年の春だった。鹿児島実高から横浜フリューゲルスに加入したルーキーが、いきなりJ開幕戦でスタメン出場を飾ったのだ。
 
 いまでも、顛末や当日の雰囲気などすべてを鮮明に記憶している。

「個人としては最高のスタートを切れた。パフォーマンスはさておき、フリューゲルスも相手のマリノスのメンバーも最高やったよね。シーズンの開幕戦が新横(横浜国際総合競技場)のこけら落としで満員。しかも横浜ダービー。これ以上の経験はないやろうって試合を最初に経験できた。余裕じゃないけど、その後の気持ちの楽さってのはあったと思う。それは、確実にあったよね」

 まったく緊張はしなかったという。抜擢登用も想定内だったようだ。

「監督(カルロス・レシャック)がああいう人だったんで、日本人の監督ならあそこまで若手を抜擢しなかったかもしれない。プレシーズンでスペインに遠征して、ある程度やれるかなって手応えが自分のなかにはあった。監督がイメージするスタイルにも合うなって。開幕戦の1週間くらい前から『もしかしたら出れるんちゃう?』と感じてたから、心の準備はできていたかもしれない」

 大した18歳である。やはり当時から緊張という言葉とは無縁だったようだ。

「サッカーで緊張ってのは……ないよね。むしろ車の免許を取るときの筆記試験のほうが緊張した。ちょうど移籍で横浜から京都に引っ越す間際で、ここしかない一発勝負。絶対に受からなアカンと思ってたから、あれがこれまでで一番緊張したんじゃないかな」

 持って生まれた冷静沈着な性格、何事にも動じないスタンスがなせる業なのか。

「それもあるやろうけど、小さい頃からキャプテンのスピーチとかあって、実はそれなりに鍛えられてたからかもね。積み重ねがあったんかなと思う。鹿実時代でも、大勢の親御さんの前でちゃんと話さなきゃいけないとか、気構えのところ。上手くこなせばいいんやろ、ってどこかで割り切れるようになった。性格だけじゃないよ」

 では、現在40歳のヤットがプロデビュー目前の18歳だった自分に声をかけるとしたら、どんなメッセージを届けるだろうか。

「なんやろ。あれこれは言わない。そのまま行け、だけかな。あとは『海外にも行けるかもよ』くらいは囁くかもしれない」

 
 この鉄人を語るうえで欠かせないひとつのキーワードが、コンシステンシー(継続性)である。

 横浜F、京都パープルサンガ、そしてガンバで刻んだ22年間のクラブキャリアにおいて、そのほとんどで主軸を担ってきた。チーム内での競争、自身のコンディション、代表との行き来、指揮官との関係、試合に向けた準備など、さまざまな要素が複雑に絡むなかで、常に水準以上のパフォーマンスを保証してきたのである。

 支えた原動力はなんだったのか。問いかけるとヤットは「特にはないよ、ほんとに。試合に出たいっていう強い気持ちだけ」と答えた。そして「コンディションを整えて、チームメイトに負けないように頑張る。そこが基本かな」と話すのみである。

 薫陶を受けた監督たちとも常に良好な距離感を維持した。「フィジコを含めて、対立したりとかはいっさいなかった。意見を言うことはあっても、監督の構想から外れるとかがなかったから、それはありがたかったよね」と振り返る。

 一方、日本代表でのキャリアは波瀾万丈だった。

 シドニー五輪本大会はバックアップメンバーとして帯同を命じられ、練習でボールも蹴らせてもらえない苦渋の経験をした。2006年のドイツ・ワールドカップでは大会登録されたフィールドプレーヤーのなかで唯一出場を果たせず、14年のブラジル・ワールドカップでも大会中にベンチ行きを告げられた。
 
 もちろん二度のアジアカップ優勝や10年南アフリカ・ワールドカップでのきらりと輝く活躍もあったが、歩んできたプロキャリアは、かならずしも順風満帆だったわけではない。

「いろいろあったよねぇ。印象深いのはやっぱりジーコジャパンかな。試合に出てても海外組が来ればポジションを奪われる。そういう空気がなんとなくあった。実力主義でね。同じポジションで勝とうにも、海外組とは(リーグ戦で)戦えないからね。ポジションを争ってたフク(福西崇史)さん、ミツオ(小笠原満男)、コウジ(中田浩二)とかとは、Jリーグでやり合うなかで『絶対に負けない』『個人のパフォーマンスで上回るぞ』ってのはアピールとしてできたけど。

 ひとつの反抗やね。勝ってるやん、って自分では思ってた。シドニーのときもそうやったけど、俺にできるのはガンバに戻って良いパフォーマンスを見せるだけ、それしかないって。代表で出れたり出れなかったり、チャンス待ちだったとき、そういう気持ちを強く持たされたのは間違いなかった」

 かといって、挫折のように感じた瞬間は一度もなかったという。

「幸せなことをしてるなぁ、ってつくづく思うよ。だって、サッカーでメシが食えてるんだから。ほかの仕事じゃない、サッカーでだよ。自分はどんだけ幸せな位置にいるのかを、ずっと感じながらプレーしてきた。代表でもがいてるとか、言ってみればトップでしか無理な話でしょ。幸せなところでもがいてる。

 昔、カルロス(鹿実時代のブラジル人コーチ)に何度も言われた。俺らは全部、手も足も耳も目も不自由なく使えて、サッカーがやれてる。それだけで幸せやぞって。たしかになぁってずっと思ってやってきた。サッカーしたくてもできない人がいて、運動ができない人だっている。俺の悩みなんて大したことない、幸せなところでの愚痴にすぎないって。試合に出れる出れないの悔しさなんて大したことない、自分の努力次第でなんとでもなるんやと。

 仕事の壁をどんどんぶち破っていかないとダメ。物事を大きく捉えながら、小さいものを開拓していく。サッカーしている時点で幸せ。だから小さいことでグチグチ言うなって感覚は、いまでもある」

 例えば試合後、ヤットにチームメイトのワンプレーについて意見を訊くことがある。たいてい彼は「俺の考えでは」や「合ってるか分からんけど」という文言を頭に付ける。相手を尊重し、決して批判的なアプローチで言葉を紡がない。

「人のこと言ってもしょうがない。だって、同じものが見えてるわけじゃないから。自分の立場で、自分の絵に沿って人のことを言っても、それはただの文句にしかならない。だから俺は若手に対しても、必要最低限のことしか言わない。訊かれたらなんでも話すけど、答を押しつけたりは絶対にしないよね」
 以前のインタビューで、「歴代ベストのパートナーは誰か?」と質問したら、即座に「ファビーニョ!」と回答していた。西野ガンバ時代の2002年シーズンに1年だけ在籍したブラジル人MFで、ヤットの攻撃性能を最大限に引き出した中盤の名フィルター役だ。

 パートナーには本当に恵まれてきたと、感謝を口にする。

「プロになってモト(山口素弘)さんにはじまり、シジ(シジクレイ)、パク・チソンともやって、ハッシー(橋本英郎)、コン(今野泰幸)ちゃん、ミョウ(明神智和)さん。みんなやりやすかったし、向こうも合わせてくれたよね。武井(択也)も含めて、守備で上手く気を遣ってくれる人がおったから、俺は攻撃に専念できて、点を取れたりもできたんだと思う。

 恵まれてますよ。みんな代表クラスやもんね。ありがたかった。自分が30歳とか代表でバリバリにやってたときに、もしすっごい若手と組んでたら、教えなければいけなかったかもしれない。寄せていかないとアカンかったと思う。でもみんな、なにも言わなくてもやれる選手だったからね。本当に恵まれてた」

 2001年にサンガからガンバへ移籍して、早や20年目。「加入した当初はここまで長くいる予定はなかった」と苦笑する。「時代やろうね。いまならフリーになったらゼロで移籍できるし。ただ、良いときにガンバが強くなっていったのもあるし、いちばん“面白いサッカー”をしてたからね」と回顧したのも、偽らざる本心だろう。

 とはいえ、同年代の小野伸二や中村俊輔、稲本潤一、高原直泰といった面々が若くして日本を飛び出し、欧州で研鑽を積んでいたことは、どう捉えていたのだろうか。

「う〜ん、ポルトガルやオランダ、スペインとかならお金が良くなくても行きたいって話はしてたけど、オファーがなかったのかな。やっぱりドイツ(ワールドカップ)で出れなかったのが大きかった。2010年のワールドカップ後に良い話はもらったけど、正直イタリアには興味がなかったし、ガンバで不満もなかったからね。

 ただ、海外に行きたい気持ちはいまでも強くある。マジな話で、良いチームがあればいいなぁって。それこそポルトガル、スペイン、アメリカとかオーストラリアも面白そうやね。ぜんぜん行きたいし、海外に住んでみたいってのもある」

 
 遠藤は今季開幕戦となったマリノス戦のあと、大勢の報道陣に囲まれた。そこで力説していたのが「サッカー脳」についてだ。

 身体的な衰えは年齢とともに避けられなくなるが、サッカー脳はいくつになっても進化し続ける──。もう少し詳しく教えてもらおう。

「脳はね、まだ進化できる。考えるスピードじゃない。サッカーの捉え方に幅が広がっていくと言えばいいのかな。いろいろ引き出しができてて、こうなったらこうなるやろって思い描けるようになる。教科書通りにテーブル上で動かすんじゃなく、流れのなかで感じる部分っていうのは、まだまだ伸ばしていけるってことよ」

 とはいえ、寄る年波には抗えない。自身のフィジカルとも、上手く折り合いをつけていく必要がある。

「試合に出れなくなったら一気に落ちると思う。いままでの先輩たちがそう言ってるし、いっかいでも休んだりしたら落ちると。30分でも40分でも試合に出て練習を休まなければ、年とともに確かに落ちていくけど、それは緩やかになっていくってみんな言ってて、最近は自分でもそうかなと実感してる。

 衰えるのは……全部よ。スピードも動体視力も判断も、それから足も回復も。最後の一歩が出ないとかね。それを補うためにいまはトレーニングをしっかりしてるから。34(歳)までは鍛えるほうに力を入れてたけど、35(歳)からは体幹とかスムーズさや滑らかさを重視するほうに変えた。そうしたことでカバーできたらいいなって、いまは思う」
 分け隔てなく、誰とでも気さくに話せるタイプの人間だ。チームメイトやファン・サポーターに対してはもとより、メディアにとっても長きに渡ってアイドルである。いつも試合後には、老若男女を問わず、数多の取材者がヤットの声を拾おうと集まってくる。メディアを惹きつけるのも、大事な能力のひとつだ。

「しゃべることもひとつの仕事。代表に入ってから、そこはすごく考えるようになった。影響力があると思うから、メディアの人も俺に話を聞きにくるわけでしょ。爆弾発言はしないし、内容には気をつけて話してるけど、大事な役割のひとつだと思って接している。

 若いときは気持ちに波があるから対応もまちまちだったけど、プロとして果たすべき仕事。悪いときでもひと言ふた言は発して、今日はすいませんって言えるかどうかやと思う。ドイツから南アにかけてですごく重要だと感じたし、メディアとはすごく良い距離感でやれてきたかなって」

 では、日本サッカー界の次代を担う若きJリーガーたちのことはどう捉えているのだろうか。価値観における世代間ギャップはあるにせよ、生き字引・ヤットの言葉には、スタープレーヤーへと成長を遂げるためのヒントが隠されているはずだ。

「若手には期待しているところが大きいんだけど、なんかこう、真面目すぎるのかな。もちろん私生活とかじゃなくて、プレーに対してね。これをしないとアカン、これをしなさいって言われすぎてるのかもしれない。それは分かるんだけど、だとしてももっと自分の色を出してほしい。

 対戦相手でもそう思う。全員がハードワークしないとダメだ、球際で戦わなきゃとかに意識が行きすぎてる。自分はもっとカッコ良くセクシーにプレーしたいんです、って選手が出てきてもいいよね。球際で勝てば、試合に勝てるのかってところよ。先に行きすぎてるような気がする。

 自分のとこに来たら全部シュートに行くんじゃなくて、周りも使いながら、遊び心を持ってトリッキーにやってもいい。相手のゴール前ならね。もっと好きなように、自分が思うようにやればいいのにって」

 
 そんななかでも、ヤットの琴線に触れた若き才能がいる。今シーズン、マジョルカでプレーした久保建英だ。

「久保くんにはね、その遊び心のところですごく感じる部分がある。相手をいなしてやりたいんやろなって。ホントにすごいよ、あの年で。去年までJリーグにいたけど、もうすでにチンチンにしてたからね。

 ちょっとブラジルっぽいプレーもするし、ああいう日本人の若手はいないでしょ。遊んでやろうみたいな。アキ(家長昭博)とかも若い頃から独特で、相手が寄せて来たらはたくし、来なければなんでもできますよ、みたいなところがあった。でも大半の若手は、目の前に敵がいても簡単にシュートを選択しがち。どこかみんなバタバタしている感じがする」

 根底にあるのは、娯楽性の高いサッカーへのリスペクトだ。

「トレンドに乗っかるだけがサッカーじゃない。いまはどうしても、全部がそっちに寄せていきすぎな気がする。いつどこで点が生まれるか。そんなチーム、そんな選手が個人的にはもっともっと増えてほしいなって思う」
 新たな金字塔となったJ1最多出場記録はこれから先、そう容易くは破られないだろう。
 
 かたや、ヤットが誇るもうひとつの偉大な最多記録はどうだろうか。日本代表での国際Aマッチ出場152試合は、2位タイで並ぶ長友佑都、井原正巳の122試合を30試合も上回るダントツの数値だ。現在33歳のダイナモ・長友がはたして追いつけるかどうか。
 
 記録保持者の予測やいかに!?

「俺の記録を抜く可能性があるとしたら、冨安(健洋)くんが行けるんじゃないかな。あとは久保くんもあるかも。俺が22歳からスタートした記録だってことを考えても、彼らが15年間まるまる代表で出続けたら十分にあるでしょ。

 でもいまは代表の試合数自体が減ったからね。まあ俺の記録を抜いたらすごい。抜かれて悔しいとかっていうより、純粋に『おおすごいな』って思うだろうね。だいたいこういう記録っていうのは、地味にコツコツやっている選手が達成するのよ。スターやフォワードじゃなくてね。影の存在なんだけど、いつの間にか来てたねって選手が、更新するんじゃないかな」

 そんな鉄人も、いつかスパイクを脱ぐ日はやってくる。引退後のキャリアについては、現時点でどんな青写真を思い描いているのか。

「なにも考えてないけど、監督はやってみたいって思う。まあでもライセンス制度のところが……。まだなにも(どのライセンスも)取ってないからね。引退してすぐに監督をやっているシャビにようにならんかなと。いずれにせよ、真正面から挑む勝負事をしたいよね」

 
 ヤットには、ささやかな夢がある。現在中3の長男と、いつか同じプロのピッチに立つという夢だ。
 
「Jリーグでいままでおらんからね。兄弟や双子はあっても、親子はさすがにないでしょ?(笑) 一緒にピッチに立てればいいよね。対戦相手でもいいし、J2でもJ3でも。そこがモチベーションになってるわけじゃないけど、そうなったらいいかなってくらい。

 息子とはサッカーの話はほとんどしないし、観に行ったりもしてない。最初は点取り屋っぽかったけど、最近は俺に寄ってきたのかな。なんにせよ、息子には楽しく、目標を持ってサッカーをやってほしい。それだけだよ。俺はなんとかあと3〜4年、頑張っていければ……」

 高1の頃から、遠藤保仁を取材してきた。やはり外野からすれば、心残りは五輪の檜舞台に立てなかった悲運だ。シドニー大会はバックアップメンバーで、オーバーエイジ枠での出場が見込まれていた北京大会は病気を患って招集を辞退した。華々しいキャリアにぽっかりとあいた空洞である。

 1年の延期が決まった東京五輪に向けては──。訊いたあとで、くだらない質問をしたと後悔した。

「五輪? もちろん狙ってますよ! あれだけは出たことないから、出たい気持ちは強いよね。まあでも……、ないでしょ(笑)。個人的には若手だけで行けばいいと思う。俺はいずれ、スタッフで行ける日が来るかもしれんから、そのときまで楽しみに取っておきますよ」

 どこまでも心優しい、サービス精神旺盛な男である。

取材・文●川原崇(サッカーダイジェスト統括部長)

※文中敬称略。「サッカーダイジェスト」7月31日号より転載。