Jリーグで外国人として最も長くプレーした(途中も含めて15シーズン)マルキーニョは、最も多くの試合に出場し(333試合)、最も多くの得点(152点=9月30日時点で、日本人を含めても歴代5位)を記録した。

 決して大柄ではないが、屈強で、技術レベルが高く、スペースへ走り込むのが巧み。右利きだが、左足でも決められ、空中戦にも強いオールラウンドタイプのストライカーだった。

 得点パターンが多彩で、オーバーヘッドやボレーで華麗に決めるかと思えば、ゴール前で強引に身体を捻じ込んでの泥臭い得点も多かった。

 その一方で、エゴイストではなかった。チームメイトへのアシストも多く、前線での献身的な守備でも貢献した。

 常に勝利を目指してひたむきにプレーしたから、日本で所属した7クラブのどこでもチームメイトから信頼され、サポーターからも愛された。

 こんな外国人選手は、今後もなかなか出てこないかもしれない。
 
 ブラジル南西部マトグロッソドスル州の小都市の出身。子供の頃からボールを蹴るのが大好きで、12歳で地元のクラブに入り、18歳でパラナ州の小クラブへ。22歳のときかつて三浦知良(現・横浜FC)もプレーしたコリチーバへ移籍し、レギュラーとして活躍した。2001年7月、25歳のときに東京ヴェルディからオファーを受けて「ほとんど何も知識がなかった」(本人)日本へ渡り、貴重なゴールをあげて1部残留に貢献した。

 2003年に横浜F・マリノスへ移り、Jリーグ優勝に貢献。2004年はジェフユナイテッド市原で絶好調だったが、9月末に左アキレス腱を断裂して手術。2005年から清水エスパルスで再びゴールを量産した後、2007年から鹿島アントラーズでプレーした。

 鹿島では、在籍4シーズンの間、常にチーム内得点王で、Jリーグ3連覇に大きく貢献した。とりわけ、2008年は21得点をあげてリーグ得点王に輝き、MVPにも選ばれた。

 2011年にベガルタ仙台へ移ったが、東日本大震災に見舞われて大きなショックを受け、4月に退団。母国へ戻り、短期間、アトレチコ・ミネイロでプレーした。

 しかし2012年に日本へ戻り、横浜マリノスで2シーズン、ヴィッセル神戸でも2シーズン在籍して活躍した。
 2015年末、現役を引退。出身地マットグロッソ州で約3600ヘクタール(東京ドームの約984個分)という広大な牧場を経営し、10人ほどの使用人を雇って牛3000頭を飼育するかたわら、フットバレー(ビーチバレーのコートで、主として脚、胸、頭を使って2〜4人でプレーする)の選手として国内各地を転戦する。

 現在44歳だが、引き締まった肉体は現役時代とほとんど変わらない。

「僕は、20年間のキャリアの大半を日本で過ごした。最初は言葉とメンタリティーの違いに戸惑ったけれど、日本の文化、習慣、国民性に親しみを覚え、日本に溶け込む努力をした。フットボールでも、日本のスタイルに慣れようとした。いつも居残り練習をして、プロとして成功するために最大限の努力を続けた。

 これらのことが、日本で長くプレーできて結果を残せた最大の理由だと思う。日本では、クラブ関係者、チームメイト、サポーターらすべての人に本当に良くしてもらった。今の僕があるのは、すべて日本と日本の人々のおかげだ。この新型コロナウイルスの流行が終わったら、一人の旅行者として日本へ行って、またみんなに会いたい」

 Jリーグを4度(2003年、2007年〜10年)、天皇杯を2度(2007年、2014年)制覇。チームのタイトル獲得に貢献し、個人としても突出した結果を残した。外国人選手という括りを外しても、Jリーグ史上最高の選手の一人だ。

 彼が日本と日本人に感謝してくれるのとは別に、日本のフットボール界も彼の多大な貢献に深く感謝しなければなるまい。

取材・文●沢田啓明