[サッカーキング No.001(2019年4月号)掲載]


1995年のプロデビューから24年。セバスティアン・アブレウはこれまで11カ国を転々とし、

所属したクラブの総数「28」はギネス世界記録に認定された。

文字どおり世界を股にかけて活躍するクレイジーなストライカーは、まだ歩みを止めそうにない。


インタビュー・文=マルティン・マズール

翻訳=田島 大

写真=ゲッティ イメージズ


 俺の夢はただ一つ、フットボール選手になることだった。でもまさか、ギネス世界記録に認定されるなんて想像もしなかった。見てのとおり、俺は42歳になった今も現役バリバリだ。フットボールへの情熱も、ゴールへの欲求も全く衰えていない。フットボールと向き合う姿勢は変わらない。俺はいつだって全力なんだ。


 これまでいろいろな選手と一緒にプレーしてきた。ロナウジーニョ、ジョゼップ・グアルディオラ、ディエゴ・フォルラン、エディンソン・カバーニ、オスカル・ルジェリ、クアウテモク・ブランコ、ルイス・スアレス、ロイ・マカーイ……。ワールドカップには2度も出場したし、コパ・アメリカの優勝だって経験した。ウルグアイ代表での得点数は歴代7位だ。プロキャリア通算で見ると、422ゴールもたたき出している。悪くないだろう?


 消防士を夢見る子供もいれば、パイロットや宇宙飛行士に憧れる子供もいる。ウルグアイの子供はみんなフットボール選手を目指す。でも本当に選手になれる人は限られるし、俺の夢だって簡単じゃなかった。どんな夢かって? ナシオナル(ウルグアイのクラブ)の選手として、ウルグアイで国内王者になりたかったんだ。それが見てみろよ。気づいたらこんなキャリアを送っている(笑)。


 俺はウルグアイ南部の都市ミナスで生まれた。有名な選手は“爆弾”の愛称で知られるホルヘ・ビラルくらい。1987年にペニャロールでコパ・リベルタドーレスを制した選手だ。これまでにたった一人しか選手を輩出していない街で生まれ育つのがどういうことか、分かるかい? 「できるわけがない」、「妄想もいい加減にしろ」って、周りのヤツらにバカにされる生活だよ(笑)。でも、夢を持ったからには本気で挑戦しないと意味がない。そう思わないか?


 1993年、俺はU−17代表に選出されて、デフェンソール・スポルティングと契約した。本拠地であるモンテビデオに移り住み、1年ほどで5部のアカデミーチームからトップチームまで上り詰めたんだ。フットボールこそ自分の生きる道だと確信したのはこの頃だ。


 デビュー戦の相手は“Liverpool”だった。イングランドのヤツじゃない。リベルプールという国内のクラブだよ。その試合でプロ選手になる夢が実現したから、次の目標は子供の頃から応援してきたナシオナルに移籍することだった。そこでキャプテンになり、得点王に輝き、優勝する。そして代表チームでも結果を残してW杯に出場する──結局、そのすべてをかなえることができた。


◆ペップに負けないほどシメオネは情熱的だった

 他の国に移籍したときの秘訣を教えてあげよう。まずは自分からその国の文化に慣れることだ。向こうが合わせてくれるなんて考えちゃいけない。街に繰り出して、その土地の一般的な食事を試してみる。そうすれば自分の好みが分かる。苦手な物もね。それが大事なんだ。新天地ではチームメートの家に食事に招待されることがある。そのときに、自分の好みが分かっていれば伝えることができる。みんなの前で苦手な物を食べて顔をしかめたりしたら最悪だ。


 次に大切なのは、新しい何かを学ぶ探究心と成長する意欲を持ち続けること。そして自分の決断には責任を持つこと。俺はいつも自分で自分の道を決めてきた。チームメートの中には、契約した翌日に移籍を後悔しているヤツもいたよ。他人が最終決断を下すと、そういう後悔が生まれてしまう。俺はウルグアイからアルゼンチン、スペイン、ブラジル、メキシコ、イスラエル、ギリシャ、エクアドル、パラグアイ、エルサルバドル、チリと渡り歩いた。それぞれのスタイルを学んだ経験は、将来監督になったときに役立つと思っている。


 メキシコのドラドスでは、ペップとチームメートになった。こいつは監督業に進むだろう、とすぐに感じたよ。彼はいつもフアン・マヌエル・リージョ監督(現ヴィッセル神戸監督)と戦術議論でヒートアップしていた。片方がフォークとスプーンを持てば、もう一人はナイフとパンを持って応戦していた。手元にある物なら何でもいいんだ。彼らはテーブルをピッチにして、何であれ駒に見立てて、相手の戦術を無力化しようと試行錯誤していた。いつも夕食は20時だったが、23時になっても彼らはまだ言い争っていた。二人の天才による究極のフットボール講座だったね。


 そうだ、ペップの秘密を一つ教えてあげよう。彼はディテールに固執しているんだ。08−09シーズン、バルセロナはチャンピオンズリーグに予選から出場した。ベイタル・エルサレムとヴィスワ・クラクフの勝者と対戦することになっていた。俺は当時、ベイタルに所属していてね。残念ながら俺たちは2ndレグを0−5で落としてしまった。すると数日後、ペップが電話をかけてきて、「試合を見たよ。いいプレーをしていたね」と言ってくれた。俺をバルサに誘うつもりか?と期待したけど違った。彼はヴィスワの全選手の感想を俺に聞いてきたんだよ(笑)。彼はどんな相手も甘く見ない。だからこれほどの成功を収めているんだと思う。


 そういえばリーベル時代の監督、ディエゴ・シメオネもペップに負けないほど情熱的だった。しかもディエゴには、選手の目を見つめただけで、その情熱を伝染させる能力があった。実際に彼と目を合わせれば分かる。俺はペップやディエゴと一緒に過ごし、彼らから学べたことを誇りに思っている。


 チームメートの要望を理解するためにもコミュニケーションは本当に重要だ。俺はもうベテランだけど、決して仲間を叱りつけたりはしない。若い頃はベテラン選手の話に耳を傾けたものだ。今度は、俺が自分の経験を若手に伝えていく番だと思っている。誰もが次のリオネル・メッシやスアレス、カバーニになれるわけじゃない。才能は人それぞれだからね。誰だって他人から学ぶことで成長することができる。


◆夢は追いかけるもの。向こうから近づいてはくれない

 2013年までは、どの国に行っても家族と一緒だった。でも気づいたんだ。子供たちには同じ学校で一貫した教育を受けさせるべきだと。教育に関しては妥協したくなかった。娘のバレンティナは18歳になった。息子のディエギートは15歳で、今は俺がキャリアをスタートさせたデフェンソールに所属している。息子は3人(ディエゴ、フランコ、ファクンド)ともフットボール選手の道を歩もうとしている。彼らの近くでアドバイスできないのは寂しいよ。家族の大切な瞬間に立ち会えなかったことは何度もある。どの選手も経験していることだろうけどね。俺は引退してもおかしくない年齢だ。それでもまだ現役を続けているのは、辞めた後に後悔したくないからなんだ。


 フットボール選手も人間で、いろんな問題を抱えているけど、それを理解してくれる人は本当に少ない。でも、うれしいこともある。子供の友達が俺みたいになりたいと言ってくれることだ。だから子供たちには、自分が子供の頃には聞けなかった話をするようにしている。


 フットボールを通じて偉大な人と出会うことができた。スアレスは家族の一員だ。俺の子供の名づけ親でもある。彼はテニスやゴルフをやる時もフットボールと同じくらい必死になる。彼がバルサとセレステ(ウルグアイ代表の愛称)の9番として活躍しているのは誇らしいよ。


 スアレスは夢を追い求めたんだ。彼は南米からヨーロッパに渡ってすぐにバルサに入れたわけじゃない。最初はオランダのフローニンゲンだった。それでも正しい道だと信じて突き進んだ。愛するフットボールのためにね。夢は自分で追いかけるものなんだ。向こうから近づいてくれるものではない。俺だって同じだ。故郷の子供たちには、こう伝えることにしているんだ。「俺も後ろ盾やお金がなかった。君たちと同じ逆境からフットボールで成功を収めた」って。


 ただ、ウルグアイの環境は昔よりずっと良くなった。“エル・マエストロ”(ウルグアイ代表のオスカル・タバレス監督)のおかげだよ。彼は選手たちにプロ意識、敬意、価値観を教えてくれた。「我々は単なる選手ではなく、国の代表であり、続く世代の模範なんだ」という彼の言葉を今でも覚えている。タバレス監督の功績はフットボール界の域を超えているよ。


 南アフリカW杯の準決勝前日のことだった。俺は夕飯を食べながら、ディエゴ・ルガーノ、セバスティアン・エグレン、アンドレス・スコッティと、自分たちに何ができるか長いこと語り合った。そして俺たちは基金を設立することにした。それが「フンダシオン・セレステ」だ。南米に戻った後、初めて集会を開いた。誇りに思える取り組みになっているよ。


◆俺の引退試合まで二度とチップキックは使わない

 俺のニックネームは“ロコ”(スペイン語でクレイジーの意味)だ。サン・ロレンソにいる頃、俺のダンス(ゴールパフォーマンス)を見た解説者がそう名づけたらしい。でも俺がクレイジーじゃないことはみんなが知っている。ミック・ジャガーだって踊るけど、誰も彼のことを“ロコ”とは呼ばないだろう? 俺はチームの雰囲気を良くしたいだけなんだ!


 自分を旅人だと思ったことはない。確かに1年で3つもクラブを変えたことがある。だけどボタフォゴには3年近くいた。所属する期間は、チームのプロジェクトや自分の気持ち次第で変わる。


 それから俺は、PKでチップキックを打つことでも有名になった。別に、思いつきでチップキックをするわけじゃない。ちゃんと練習もするし、GKの動きを確認してチップキックを選んでいる。南アフリカW杯のベスト8でのPK戦を含め、これまで25本はチップキックを決めてきた。でも2011年以降はもうやらないと決めたんだ。「アブレウがまたやった」と騒がれるのは嫌だからね。だってフェアじゃないじゃないか。例えば右方向にPKを蹴り続けても騒がれないのに、チップキックだと騒がれる。誰も右方向に何本蹴ったとは数えないのに、チップキックだけはニュースになってしまう。


 ピカソは最高傑作を描いた後、同じものを描いたりしなかっただろう? だから俺も、チップキックはいい思い出としてとっておこうと思う。相手のGKは俺が本当にチップキックを卒業したのか分かっていないだろうから、疑心暗鬼に駆られるかもしれないね。でも、ここで断言するよ。俺は自分の引退試合まで、もう二度とPKでチップキックを使わない。そして引退試合ではチップキックをするから、GKは絶対に横に飛ぶこと。もしキックを止められたりしたら、引退を撤回するかもしれないからね(笑)。


※この記事はサッカーキング No.001(2019年4月号)に掲載された記事を再編集したものです。