創部4年目の湘南が初優勝、柴田勲の法政二も栄冠

故郷の代表校の、夏の甲子園での最高成績をご存知だろうか。何度も全国制覇した都道府県もあれば、頂点に届きそうで届かない都道府県もある。そこで夏の甲子園での最高成績を都道府県別に紹介する。今回は全国3位タイの7回の優勝を誇る神奈川県。

夏の甲子園の神奈川代表最高成績

今では強豪ひしめく全国屈指の激戦区として知られる神奈川だが、全国大会初出場は1923年の第9回大会と意外に遅い。横浜商が初戦で早稲田実に敗退した記録が残っている。

神奈川県勢初優勝は1949年の湘南だ。初戦で城東を9−3、準々決勝で松本市立を2−1(9回サヨナラ)で下すと、準決勝では後に西鉄で244本塁打を放つ「怪童」中西太のいた高松一に3−2で延長10回サヨナラ勝ち。決勝では岐阜に5−3と競り勝ち、創部4年目で初優勝を遂げた。

湘南の優勝メンバーには、後に高野連会長を務める脇村春夫やプロ引退後に「プロ野球ニュース」のキャスターでお馴染みだった佐々木信也がいた。

県勢2回目の優勝は法政二。1960年の第42回大会、2年生エース柴田勲を擁して4年連続6回目の出場を果たすと、初戦は御所工に14−3と大勝した。続く2回戦は、計3度対戦することになる浪商・尾崎行雄との初対決に4−0で勝利し、準々決勝は早稲田実に8−0、準決勝は鹿島に6−0、決勝も静岡に3−0と完封勝ちし、初めて大旗をつかんだ。

法政二は翌春センバツも制して夏春連覇。しかし、柴田が3年生になった1961年の最後の夏は、準決勝で浪商・尾崎との投げ合いに敗れ、3連覇はならなかった。

東海大相模と桐蔭学園が連覇

法政二の全国制覇から10年後の1970年に初優勝したのが東海大相模だ。1965年に福岡・三池工を全国の頂点に導いた、原辰徳現巨人監督の父・貢氏を招へいした東海大相模は2度目の甲子園。初戦で唐津商を5−4で下し、準々決勝は滝川に7−6で延長10回サヨナラ勝ち、準決勝も岐阜短大付に3−2でサヨナラ勝ちを収めた。

決勝の相手は、後にプロで活躍するエース新美敏や2038安打を放って名球会入りする新井宏昌のいたPL学園。試合は点の取り合いになったが、東海大相模が終始リードを保ち、10−6で初の栄冠をつかんだ。ちなみに原辰徳との親子鷹で話題になったのは、初優勝から4年後の1974年夏以降のことだった。

東海大相模に続いて翌1971年に頂点に立ったのが桐蔭学園。東邦に2−0、海星に6−0、鹿児島玉龍に1−0、岡山東商に5−2と勝ち進み、決勝は「小さな大投手」と呼ばれた身長165センチのエース田村隆寿擁する磐城に1−0で勝ち、神奈川県代表として2年連続4回目となる優勝を果たした。

愛甲猛、松坂大輔の横浜、東海大相模も2度目V

神奈川県勢5回目の優勝は1980年の横浜。後にプロで打者として活躍する左腕エース愛甲猛を軸に、高松商に8−1、江戸川学園に9−0、鳴門に1−0、箕島に3−2、天理に3−1と勝ち進み、決勝は荒木大輔が1年生だった早稲田実と激突。6−4で競り勝ち、見事に頂点に立った。

6回目も横浜だ。1998年、エース松坂大輔を擁してセンバツ優勝すると、夏も優勝候補筆頭として甲子園に乗り込んだ。初戦の柳ケ浦を6−1で下すと、2回戦はプロで142勝を挙げる杉内俊哉のいた鹿児島実に6−0と完勝。3回戦も星稜に5−0で完封勝ちし、運命の一戦を迎える。

準々決勝のPL学園戦。今も語り継がれる延長17回の名勝負は、常盤良太の決勝2ランで9−7で制し、ベスト4進出を決めた。

疲労困憊の松坂は準決勝は先発せず、明徳義塾に6点リードを奪われる展開だったが、8回に4点を返すと、9回に松坂が登板して流れが一変。その裏に3点を奪って奇跡の逆転サヨナラとなった。決勝の京都成章戦は松坂がノーヒットノーランを達成し、3−0で記録にも、記憶にも残る春夏連覇を成し遂げた。

東海大相模が2回目、神奈川県勢として7回目の優勝を果たしたのは2015年の第97回大会。聖光学院を6−1、遊学館を11−2、花咲徳栄を4−3、関東一を10−3で下して決勝進出を決めた。

決勝は左腕エース小笠原慎之介と仙台育英の右腕・佐藤世那が先発。6−6で最終回に突入する白熱の攻防は、9回表に4点を奪った東海大相模が勝利し、栄冠をつかんだ。卒業後、小笠原は中日、チームメートの右腕・吉田凌はオリックス入りした。

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