10周年を迎えたロロが、ロロという劇団のあり方を見つめ直し、「集団性」をテーマに創作する本公演2作品。架空の劇団の結成から解散までの歩みを、演劇に⼀⽬惚れした少⼥を通じて描いた『はなればなれたち』が好評に終わり、続く『四⾓い2つのさみしい窓』が、1月19日(日)から上演される。

10周年イヤーを締めくくる今作では、舞台と客席の間に透明な壁が設置されるVR演劇ばかりが上演されるような時代に、解散公演を上演しようとする劇団員たちや、妻の出産を間近に控えた旅⾏中の若い夫婦、謎めいた男⼥といった異なる「関係性」の登場人物たちを通じ、集団の内側から⽣まれる「別れと再会」を描く作品になるという。脚本家・演出家の三浦直之に前作の繋がりを含めて、新作について語ってもらった。

三浦直之

三浦直之

――まずは前作『はなればなれたち』を上演した感想を聞かせてください。

作品づくりはもちろんですが、最近クリエーションの場である稽古場の空気をどのようにつくっていけるかということに関心があって。『はなればなれたち』は曽我部恵一さんとひらのりょうさんという、俳優ではない方を座組みに入れてつくった作品です。演劇の外部の方が参加したことで、とてもいい稽古場の空気がつくれたと思っています。

また作品については、(ロロのメンバーが誰一人抜けることなく10周年を迎えて)今後10年はどういう風にどうやって一緒にいられるかを考えて、「離れたまま共にいる」関係をテーマにつくっていきましたが、その目標はある程度達成できたと思います。

『はなればなれたち』 撮影|三上ナツコ

『はなればなれたち』 撮影|三上ナツコ

――今の稽古場はどんな雰囲気ですか?

今とても緩い空気で作品づくりができていて、僕としてはいい空気感だと思います。クリエーションするときって、どうしても効率の良い方に流れていきがちだと思うんです。今作は、5年ぶりにメンバーだけでつくる作品です。どういうクリエーションの場をつくっていけるかを考えると、あまり効率的な方に着地しないようする……というよりメンバーだけでつくるからこそ、良い効率の悪さを追求したいと思います。

――メンバーたちだけでやろうと思った動機には、作品づくりの面で何らかの意図があったんですか?

この何年かはずっと集団や共同体、コミュニティについて考えてつくってきました。今作でそれを一区切りにするつもりです。一区切りにするのであれば、僕がみんなと演劇をつくっている「ロロ」という場所に向き合っていこうと。それでメンバーだけでつくりたいと思ったんです。

――外部の仕事と違って、気心の知れたメンバーなら多くを語らなくても察してもらえる部分があると思うのですが。

僕らはとても仲のいい劇団だと思いますが、気心の知れた仲間とつくっているというより、むしろメンバーそれぞれが昔とは違う考えを持つようになったと感じることが増えてきています。外部での活動も増えたことや、年齢・社会の変化を通じて、メンバーたちの価値観が変わったのだと思います。稽古中はそうした価値観の違いを、どのようにしたら共有できるかを意識しています。

ロロ

ロロ

「再会」を捉え直して、関係性を拡張する

――前作では架空の劇団の結成から解散までの流れを通して、「離れたまま、一緒にいる」集団のあり方が描かれました。『四⾓い2つのさみしい窓』では、「別れと再会」がテーマということですが、どのような「集団性」を描いた物語なんでしょうか?

『はなればなれたち』は(劇団が解散する)「別れ」の物語でもあったので、次は「再会」の物語にしようと考えていました。ただ普通の再会を描いてもなぁと思って。それで『四⾓い2つのさみしい窓』では、どのようにして再会を「再会(という概念)」から解放するかを考えたんです。稽古場では、稽古が終わるとメンバーたちは別れて次の日にまた集まってきます。職場や家族の間でもそうだろうし、それは毎日みんなが「再会」を繰り返しているとも言えるじゃないですか。(短いスパンで)繰り返す「再会」というものをどのように捉えていくか。

例えば、あるメンバーと僕が今日別れて、次の日に会ったら友人になっていて、また別れて次の日には恋人になっていて、その次に会うと先輩と後輩の関係になっていたり。つまり再会するたびにコロコロ変わる関係性を描きたかったんです。

ロロという劇団で言うなら、僕の立場がある日は父的で、次に再会するときは子的、あるいは母的になっていてもいい。劇団の主宰で演出家で劇作家で、という肩書きがあると、“演出家と俳優”という関係にはまりやすい。その中で拡張する関係性をどうやってつくるかが僕の中でのテーマで、別れと再会を繰り返すごとに関係性が変わる共同体をつくれないかと思ったんです。

――作中でも、登場人物たちの関係は変わるんでしょうか?

それを目指しています。家族だったり夫婦だったり劇団だったり。様々な関係が物語が進むにつれて変わっていきます。

透明な壁で隔たれた舞台に、“演劇”は宿るか?

――本作は2011年の東⽇本⼤震災をきっかけに建設された「透明の防潮堤」から着想を得たそうですね。飛躍し過ぎかもしれませんが、ポリコレ的な問題に意識的でいらっしゃることと物語は関連あるのでしょうか?

震災について意識はしていますが、それをテーマにしたいわけでもないんです。

「透明な防潮堤」の話で言えば、震災後に巨大な防潮堤が建った場所はいくつもあって、それによって海が見えなくなったり景観が悪くなった地域や、場所によっては海を見えるまち並みを守るために防潮堤を作らず、山を切り崩して土地自体の高さを上げたケースもあります。防潮堤を透明にしたこと自体は、僕はとてもポジティブなことだと思います。高波からまちを守る対策は必要ですし、海が見えなくなるより見えるままで済むのなら、きっとそれは歓迎されると思う。

戯曲を書くときに「透明な防潮堤」からイメージしたのは、“守られるためにつくられた壁”についてです。壁を建てることで景色が見えなくなってしまうというときに、透明で向こう側の景色が見える壁が建てられたらどうなるのか。いわゆる防潮堤は、壁の向こう側が見えないし、隔たれることで向こう側のものを触れないですが、透明の壁は見えるけれど触れることができない……、そういったことを考えていました。

――作中で「透明な壁」は、どういった意味合いで使われるのでしょうか?

「透明な防潮堤」を、また違う角度から考えたんです。「透明な壁」をアイフォンのようなもので考えてみようと。「透明な壁」の向こうにデジタルな映像が広がっているイメージです。そこから、VR演劇は成立するかということを妄想したんです。

実際の劇場で舞台と客席があり、観客が集まってきたとします。スクリーンなのか、観客の皆さんが装着するのか、生身の人間と全く区別がつかないレベルで公演をVRで再現できたとします。舞台上で上演したら、それは“演劇”として成立するのか。僕はそのとき、VR演劇は成立しないと思ったんです。

極端なことを言えば、通常の演劇は観客がそこで行われている舞台を壊してしまうこともできる。僕は演劇って根本的にその暴力性込みで成立しているんじゃないかと思うんです。ある種の共犯関係みたいなものがあって、そこに宿る暴力性みたいなものが演劇の根っこにあると。だから観客が演劇に干渉できないVRの公演に“演劇”は宿らない。

今、客席のつくり方やホスピタリティについていろいろな議論が起こっています。もし何らか事件があって、客席と舞台の間に透明な壁を建てた観客が演劇に干渉する可能性を剥奪した劇場が誕生したら演劇はどうなるんだろう、ということも考えたんです。もしそこで行われた演劇が成立するようになったとしたら、VR演劇が流行るんじゃないかなと想像して。だから、劇中にも「VR演劇」という言葉が出てきています。

――「透明な壁」が舞台上でどのように表現されるかも興味深いですが、舞台美術はどのような感じになるでしょうか?

物語は溜息座という旅芸人たちのパートと、夜海原という場所を目指す観光客のパートが交互に進んでいく構成になっています。舞台美術はずっと一緒にやっている杉⼭⾄さんと相談して、旅芸人がつくった仮設舞台みたいなものを用意して、その仮設舞台を使いながら見せていきます。

――今回4都市を巡回されますが、劇団が旅をする物語とツアーのイメージが重なります。

ロロはこれまでもロードムービーっぽい作品をいくつかつくっていて、『四⾓い2つのさみしい窓』もその一つになりますね。今作は再演を見据えて制作しています。いろいろな場所で上演することを想定して、杉⼭さんに持って回れる美術をお願いしています。

――前作では曽我部さんが観客の役を演じていました。最後に、今作で観客とどのような関係をつくっていきたいかをお聞かせください。

『はなればなれたち』 撮影|三上ナツコ

『はなればなれたち』 撮影|三上ナツコ

そのテーマはいつも難しいなあと思います。物語や舞台上にいる人たちが客席にいる人たちとどのようにしたら一緒にいられるか。「見る見られる関係」をどうやって超えていけるか。そういったことを考えながら(戯曲を)書いています。こうなるといい、という答えはまだ見つかっていないですけどね。

構成・文=石水典子