◇野村克也氏死去

 南海時代の兼任監督に始まり、ヤクルト、阪神、楽天、さらに社会人野球のシダックスでも監督を務めた野村克也氏。「ノムラの遺産」と題した緊急連載で野球界に残した功績を振り返る。ヤクルト監督時代は「ID(インポート・データ)野球」を標ぼう。データを重視して頭脳を駆使し、3度の日本一に導くなど革命を起こした。(特別取材班)

 野村ID野球の革命は、就任1年目だった90年春の米国でのユマキャンプからだった。1カ月間の海外。毎晩のミーティングは1時間半にも及び、選手たちの大学ノートは丸々1冊、メモで埋まっていった。

 「とにかく目からうろこで…。そんなことまで目が行くのか、という感じだった。最初は“えッ”と思い、次に“なるほど”と。次第に興味が湧いていきました」。当時の選手で、楽天でも野村氏の下でヘッドコーチを務めた橋上秀樹氏はそう振り返る。「一字一句を書き落とさないようにみんな必死に書いていた。この人なら勝たせてもらえると思っていたから」。そう話すのは、当時4番も打った広澤克実氏(スポニチ本紙評論家)だ。勝ち方を知らない万年Bクラスのチーム。そのミーティングが選手の意識革命にもつながっていた。

 1時間半のミーティング。野村氏は毎回、自ら黒板に書き、選手たちに書き写させる。「書くことに意味がある」と。現在、日本ハムで監督9年目を迎える栗山英樹氏は「ミーティングのために3カ月以上も前から準備していたと聞いた。それを毎回、90分間も板書(ばんしょ)で…。凄い労力とパワー。そこまでやる人はいない」と話した。キャンプ中、ある選手が早朝に目を覚まし、外を見ると野村監督の部屋の電気が付いていた。ミーティングの準備で調べ物をしていたのだ。

 最初は野球の話ではなく、人生論が1週間続いた。「人はどうあるべきか」。人の生きる道をとうとうと説いた。根底には、人としての成長が野球の上達につながり、人間性がプレーに出るという野村氏の考えがある。野村ID野球の申し子と言われた飯田哲也氏は「野球の講義の前に人生論だった。そこまでやるんだと思った」と振り返る。

 IDは「import data」の略。当時、中島国章渉外担当は「“import”には輸入する、のほかに運用するという意味もある。データを入手し、活用する野球ということ」と話していた。入手したデータをいかに有効活用するか。ID野球の体現には、野球の知識だけでなく、人間性を磨くことも求められていた。

 現在12球団の監督で現役時代に野村氏の指導を受けたのは半分の6人。当時の「野村ノート」を大切に保管している弟子たちも多い。野村ID野球は、30年が経過した今も息づいている。

 【まだまだある野村氏の名采配アラカルト】

 ★ささやき戦術 試合前に言葉で挑発し、相手を心理的に揺さぶる作戦をトラッシュトークと呼ぶ。ボクシングのムハマド・アリが有名だが、球界では捕手の野村が使って有名になった。マスク越しに「あれ、スタンスを変えたんか」「カーブを待っとるんやろ」とささやき、打者の集中力を妨げた。

 ★再生工場 南海の選手兼任監督だった77年に肩の故障で前年6勝だった江夏豊の適性を見抜いて救援に転向させた。「リリーフの分野で革命を起こせ」と救援投手という新たな役割でパイオニアになるよう説得し、同年19セーブと見事に復活させた。他に再生させた選手は江本孟紀(南海)、小早川毅彦、吉井理人(いずれもヤクルト)、山崎武司(楽天)ら多数。

 ★クイックモーション 南海の選手兼任監督時代、阪急・福本豊の盗塁を封じるため、ドン・ブレイザーヘッドコーチと考案。投手のフォームを小さくし、足をほとんど上げないすり足で投球時間を短縮した。考案前は捕手の責任とされた盗塁は、クイックの導入以降「投手と捕手の共同作業」として浸透。大リーグも逆輸入したとされている。

 ★ギャンブルスタート 投球がバットに当たった瞬間に三塁走者がスタートを切ることで、「ギャンブルスタート」と名付けた。ヤクルト監督時代の92年、3勝3敗で迎えた西武との日本シリーズ第7戦の7回1死満塁、二ゴロでスタートを切った三塁走者の広澤克実が本塁で憤死。3勝4敗で日本一を逃したことを教訓に、「ライナーゲッツーOK」のギャンブルスタートを徹底した。