ヤクルト、阪神、楽天、そして社会人でシダックス。数々のチームで監督を歴任したノムさんの遺伝子は、球界の随所に散りばめられている。侍ジャパンを率いて東京五輪で金メダル獲得を目指す稲葉篤紀監督(47)も、もちろんその一人だ。

 「野村監督にはたくさんのことを教えていただいた。それを思い返し、もう一度野球としっかり向き合い、五輪でどうやって勝てばいいのか考えたい」

 新人だった95年から1軍起用され、叩き込まれたID野球。「とにかく考えてやれ、と言われた。振り返れば、アマチュア時代は考えて野球をやっていなかった」と明かす。

 主に2番打者で起用された。野村監督は左の2番にこだわりがあったという。1番打者が出塁すれば、一、二塁間が空く。けん制に備え一塁手はベースに付き、二塁手は併殺狙いで二塁ベースに近づく。「そこをゴロで狙う。ただ当時1番の飯田さんは非常に足が速く盗塁の上手な方でした。2番打者として打席で“走り待ち”もする中で、いろいろなことを考えた」。侍ジャパンでも打線の中で、2番と9番を重視している。「僕は1点を取りにいく野球をしたいので、2番は小細工できる方がいい」。考えを全て踏襲するわけではないが、礎は野村監督時代の経験にある。

 一瞬戸惑う指令もあった。「村田真一のリポートを書け」と野村監督に命じられた。性格などの人となりも含めた人物像を。「捕手のことを知れ、という意味でした」。この場面、この捕手だったらどんな配球をしてくるのか。自分の中に、各捕手ごとの傾向を蓄積する作業の一つだった。

 「野球人である前に一社会人になれ」、「稲葉マイナス野球=ゼロにはなるな」。さまざまな人間教育も施された。侍指揮官として常に襟を正し、野球界の鑑たれという指導方針を貫く。

 前回08年の北京五輪で現役選手として仕え、メダルに届かず無念の4位に終わった星野監督は2年前の18年1月に亡くなった。「北京で星野監督を男にできなかった。非常に後悔しています。何とかメダルを取って星野監督にいい報告をできるように」と誓っていた。もう一人、墓前で金メダルを報告しなければいけない恩師が増えてしまった。悲しみは胸にしまい込み、2人の恩師に最高の手向けを。指揮官が背負うものはまた一つ増えた。(記者コラム・後藤 茂樹)