元本塁打王ブランコの本音「落合さんクレバー。中畑さんコメディアン」

元本塁打王ブランコの本音「落合さんクレバー。中畑さんコメディアン」

「野球大国・ドミニカ共和国」と聞けば、アメリカや日本のように華やいだ野球シーンを思い浮かべるだろうが、現実はその真逆である。国内のウインターリーグには、メジャーで職のない選手しか集まらず、メジャーリーガーが出場したとしても年明けのプレーオフからで、彼らにとってはトレーニング代わりにすぎない。おかげで球場は、人気カード以外は閑古鳥が鳴いている。

 8月某日の朝、ドミニカにある広島カープアカデミーを訪問した。ここに集う若者は、メジャーのアカデミーをリリースされた”夢破れし者”である。彼らはここで再び挑戦し、生き残った者だけが”ジャパニーズ・ドリーム”をつかめるのだが、その道は果てしなく険しい。


来日1年目の2009年に本塁打王を獲得したトニ・ブランコ

 その足で昼間は「ベースボール・バレー」と呼ばれるメジャーリーグのアカデミーが集まる一角で、ドミニカン・サマーリーグの試合を観た。アメリカマイナーリーグの最下層であるルーキー級に位置づけられるこのリーグは、初めてプロ契約をした16〜20歳前後の選手が集うリーグで、ここで才能を見込まれた者がアメリカ行きの切符を手にする。

 かつてアカデミーの選手の契約金は、日本円にして数十万円というのが相場だったが、現在は日本のプロ野球とさほど変わらず、数億円という大型契約も珍しくなくなった。1日を十数ドルで暮らす人が多いこの国にあって、ある意味アカデミーにいる選手はエリートと言える。

 そのアカデミーだが、ドミニカ社会から隔絶されている。とくに近年できたメジャーのアカデミーは、何もなかった原野を切り拓いて建設されたところがほとんどで、周囲に人気のないところが大半だ。

 アカデミーにはドミニカ人以外の、主として中南米の国から来た選手も多いが、彼らはアカデミーから一歩も外に出ることなく生活している。ドミニカ人の生の暮らしを見ることなく、ここを去る選手も少なくない。そして晴れてアメリカに渡った時、彼らはなんの違和感もなくフィールドに立つことだろう。アカデミーとは、ドミニカに場所を移した野球版”リトル・アメリカ”なのだ。

 その日の夜、ひとりの男に会った。彼の名はトニ・ブランコ。中日、DeNA、オリックスの3球団で通算8年間プレーし、2009年には本塁打王を獲得した右の長距離砲だ。すでに現役を退いていることは、そのふっくらした表情を見ればわかる。

 現役引退後はバーを経営していたがすでに閉め、今はカリブ海のビーチでジェットスキー三昧の日々を送っているという。

「まあ乗りな」と我々を車に乗せると、サントドミンゴへ向かうハイウェイに入っていった。

 車中でいろいろと話していると、自身の将来についても語ってくれた。ブランコは少年たちに野球を教えるビジネスを考えているようだった。この国の野球少年たちの夢はメジャーリーガーになること。彼らはメジャー球団との契約解禁となる16歳まで、元プロ野球選手が運営する私設アカデミーで野球に明け暮れる。

 ちなみに、私設アカデミーのトライアウトに受かれば、一切費用はかからない。アカデミーの運営者は、彼らに思う存分プレーしてもらいたいと、衣食住すべての面倒をみる。やがて、ここからメジャー球団と契約する選手が現れたら、契約金の一部が”育成料”としてアカデミーに入るというシステムだ。

 このビジネスを始めるには莫大な資金が必要だ。なにしろ、最初の契約選手が現れるまで、すべて持ち出しである。

 車は繁華街に入り、高級レストランの前で停まった。きらびやかな街並みは、ここがドミニカであることを忘れさせる。ブランコは出迎えたボーイにキーを渡すと、我々をレストランに招き、テラス席のソファーに座った。

「なんでも聞いてくれ」と言うので、まずは日本の野球の印象について聞いた。ブランコは練習量の多さに言及したが、決して否定的ではなく、むしろ「若い頃はあれぐらいの練習量が必要だった」と語った。意外なことだが、日本でプレーした経験のあるドミニカの選手は、日本流のトレーニングを肯定的にとらえている者が多い。日本での猛練習が、自分を変えたのだという意識があるのかもしれない。

 日本で8シーズンプレーし、181本塁打を放ったブランコだが、そのなかで最も苦労した投手を覚えているかと問うと、「うーん」と少しうなったあと、こう答えた。

「あいつだよ。ジャイアンツの左の先発ピッチャーだ。名前は思い出せないけど……」

 案内人としばし考えたのち、「内海哲也」の名を告げると、「そう、そいつだ」と言って、懐かしそうに笑った。

「ヤツのスライダーはほんとに厄介だったよ」

 今、内海が西武でプレーしていることを告げると、「本当なのか⁉」と目を丸くして驚いていた。

 ブランコは3球団で落合博満、中畑清など、5人の監督に仕えた。彼らにはどんな印象を持ったのだろうか。

「落合さんは非常にクレバーな監督で、自分にもよくしてくれた。しっかりとした理論を持っていたし、外国人であろうとなかろうと、分け隔てなく指導してくれた。最高の監督だった。本当に気持ちよくプレーしやすいように使ってくれた。やっぱり選手にとっては、使ってくれる監督が一番なんだよ。でないと、ホームランを打つチャンスもないからね。落合さんがいなくなった時は、本当に困ったよ。その次の監督にはいろいろと苦労したからね(笑)。

 中畑さんはとにかく明るく、面白い人だった。いつも冗談ばかり言って笑わせてくれた。コメディアンみたいだったよ。そのせいか、僕自身も普段より明るくなった気がしたよ。まあ、ヨコハマにいた時は、チームは負けてばかりで、彼はマネージャーとしてどうかと思ったけど、とにかく楽しい人だった」

 次第にブランコは上機嫌になっていった。その姿を見て、はたして”成功”とはなんだろうと考えてしまった。

 教育があまり行き届いていないこの国にあって、野球は社会的にのし上がるひとつの手段である。ブランコ自身、地方の決して裕福ではない家庭の出身だった。その彼が、日本のプロ野球で活躍し、40歳を前にして巨万の富をつかみ、日々遊んで暮らしている。間違いなく”成功者”のひとりである。

 そしてこの国では彼のようにビッグマネーをつかむことを夢見て、アカデミーの若者たちは野球漬けの毎日を送っている。しかし、野球で成功を収められる者は、ほんのひと握りにすぎない。ブランコも日本に来ていなかったら、このような生活は送れなかったに違いない。

 ドミニカではアメリカ同様、成功を収めた野球選手は、基本、現場の仕事をしない。だから”成功者”は、現役時代に蓄えた富をひたすら消費する。はたして、今ブランコは何を生き甲斐にしているのだろうか。

 帰国後、案内人から写真が送られてきた。そこにはブランコとふたりの少年が映っていた。彼の息子たちだという。長男は今、メジャー球団との契約を目指して私設アカデミーに入っているという。ブランコの息子らしく、身長192センチという堂々たる体躯で、とても14歳には見えない。自分が叶えられなかったメジャーでの成功を息子に託す——ブランコは今、それを生き甲斐にしているのだろう。

著者:阿佐智●文 text by Asa Satoshi


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