最も印象に残っている
Jリーグ助っ人外国人選手(1)
ストイコビッチ(名古屋グランパスエイト/MF)

 日本で初めて開幕戦から決勝までの全試合が放映された1990年イタリア・ワールドカップ。ミランの”オランダトリオ(ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト)”を贔屓にしていた僕に心変わりさせたのは、イタリア代表の新鋭ロベルト・バッジョと、ユーゴスラビア代表のエース、ドラガン・ストイコビッチだった。


1994年から2001年までJリーグでプレーしたピクシー

 なかでも、ストイコビッチがスペイン代表との決勝トーナメント1回戦で決めた先制ゴールは、大会のベストゴールと称されるほど鮮やかだった。

 0−0で迎えた78分、左サイドからユーゴスラビアのFWがセンタリングを上げ、ニアサイドで味方選手がバックヘッド気味にコンタクトする。ボールは高く舞い上がり、ファーサイドにいたストイコビッチのもとに落ちてくる。

 ボレーで狙おうと、シュートモーションに入るストイコビッチ。それを阻もうと、身体を投げ出して足を伸ばすスペインのDF。


 その瞬間、ストイコビッチはシュートをやめ、ボールをぴたりと止めた。スペインDFは為す術なく、ストイコビッチの目の前を滑りながら通り過ぎていく。

 これで完全にGKと1対1。名手アンドニ・スビサレッタは慌てて飛び出したが、ストイコビッチは冷静にゴール左にボールを流し込んだ。

 それから4年後の1994年6月、ストイコビッチの名古屋グランパス入りが決まった。ニュースを聞いたときの驚きたるや……。ジーコやガリー・リネカー、ピエール・リトバルスキーの来日にも興奮したが、それらとはちょっと違う嬉しさがあった。

 成田空港に降り立ったストイコビッチは、真っ赤なスーツに身を包んでいた。ド派手な出立ちは、スーパースターそのもの。入団会見では「名古屋にはドラゴンズという野球チームがあるから、私のドラガンという名前も覚えやすいと思う」というリップサービスまで飛び出した。

 イタリア・ワールドカップ後に移籍したマルセイユで大ケガを負い、欧州のサッカーシーンでは名前を見なくなっていたから、リネカーのように鳴かず飛ばずでなければいいが、と心配したが、杞憂に終わった。


 もっとも、当時の名古屋は「Jリーグのお荷物」と呼ばれるほど、負けがこんでいた。チームの状況に失望したのか、ストイコビッチは常にイライラしていて、デビュー戦でいきなり退場処分となった。

 豪雨に見舞われた長良川でジェフ市原相手に約40メートルのリフティングドリブルを披露するなど、スーパープレーも見せてくれたが、精彩を欠くことも多かった。おまけに外国人枠の関係(当時の名古屋にはリネカー、ビニッチ、ジョルジーニョ、エリベウトン、ガルサがいた)で、メンバー外になることさえあった。

 だが、翌95年シーズン、アーセン・ベンゲルの監督就任とともに、ストイコビッチは鮮やかに蘇る。

 欧州でも指折りの指揮官のもと、モチベーションを取り戻した”ピクシー”は、スペイン戦を思わせるファンタスティックなプレーを連発するようになるのだ。

 センターサークル付近で相手DFからボールを奪うと、ペナルティエリアの外からループシュートを放った横浜フリューゲルス戦でのゴール。


 相手DFふたりと対峙しながら間合いを計り、その間を軽やかに突破してファーサイドに叩き込んだ京都パープルサンガ戦でのゴール。

 3度のキックフェイントでGKとふたりのDFをピッチに這わせたサンフレッチェ広島との天皇杯決勝でのゴール。

 ディフェンスラインの裏に飛び出してスルーパスを受け、GKまでかわしてゴールポストのそばにボールをチョンと置いたアビスパ福岡戦でのゴール。

 ストイコビッチのプレーはどれもが美しく、遊び心に満ちていた。だから、記憶にしっかり刻まれ、そのすごさを今なお語り合うことができる。

 個人技もすばらしかったが、真骨頂はチームメイトを輝かせるプレーだろう。4−4−2の1.5列目に入って自由に動き、決定的なチャンスを演出し続けた。

 95年シーズンにはそれまでリーグ戦で1ゴールしか奪っていなかったアタッカーの岡山哲也が、ストイコビッチのお膳立てでゴールを量産。守備的MFだった中西哲生までもが、ストイコビッチの援護によって立て続けにネットを揺らすようになるのだ。


「”ピクシー”にボールが渡ったら、僕は信頼して飛び出していく。そうしたら、最高のタイミングで最高のボールが出てくる。僕はボールに触ればいいだけだった」(中西)

 人一倍負けず嫌いで、勝利へのこだわりが強いから、レフェリングや味方のミスに苛立ちを露わにすることも多かったが(だから、何度も退場させられた)、それも人間味を感じさせたし、ピッチの外では紳士だったから、多くのリスペクトを集めた。

 ベンゲルが指揮を執るようになったアーセナルをはじめ、パリ・サンジェルマンやアトレチコ・マドリードなどからもオファーを受け、欧州復帰の噂は何度も出たが、それでもずっと日本でプレーし続けてくれた。おかげで、僕らは7年もの間、華麗なプレーを堪能することができた。

 ストイコビッチがキックフェイントや深い切り返しからゴール前に進入することは、どのDFもわかっていたはずだ。それでも、みんな、面白いように引っかかった。


 Jリーグにおいて”ファンタジスタ”の称号が最も似合った選手——。

 記憶の箱を開けるたびに思う。”ピクシー”のJリーグでのプレーをリアルタイムで楽しめたのは、なんと幸せなことだったのだろうか、と。

著者:飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushi