記憶に残るドライバー列伝(3) 
エディ・アーバイン

フェラーリやジャガーで活躍したアーバイン

 今から30年ほど前、日本のレース界から毎年のようにF1ドライバーが輩出され、サーキットに超満員の観客が詰めかける時代があった。

 バブル末期の1990年から91年、国内最高峰の全日本F3000選手権では1レースのエントリーが30台を超え、観客数が5万〜6万は当たり前だった。90年の富士スピードウェイや91年のオートポリスなど、7万人を超えるイベントさえあった。

 コース上では世界中から有望な才能が集結し、頂点を目指して互いの腕を競い合った。ジョニー・ハーバート、ハインツ‐ハラルド・フレンツェン、ミカ・サロ、のちにF1で史上最多の通算7度の世界王者に輝くミハエル・シューマッハもわずかな期間ではあるが、全日本F3000で戦い、F1に羽ばたいていった。

 そのシューマッハと90年代後半にフェラーリでコンビを組んだエディ・アーバインも日本で活躍したドライバーのひとりだ。

 1965年に北アイルランドで生まれたアーバインは、レースや車好きの父の影響でレースを始め、順調にF1直下の国際F3000(現在のFIA F2)までステップアップを果たす。ところがF1を目前にして活動資金が尽きてしまった。当時、腕はあるがお金がないというアーバインのようなドライバーがヨーロッパにはたくさんいた。彼らに救いの手を差し伸べたのが、バブル景気に沸く日本のレース界だった。

 1991年、当時25歳のアーバインは全日本F3000選手権にデビューし、参戦3年目には”日本一速い男”と呼ばれた星野一義と激しいチャンピオン争いを最終戦まで繰り広げる。さらにトヨタのマシンをドライブしてルマン24時間にも出場(92年〜94年)。表彰台に上がる活躍を見せている。

「レベルの高いマシンに乗って腕を磨き、大金を稼いだよ」

 アーバインは日本時代をそう振り返っているが、彼はレースを戦いながらタイヤメーカーの開発ドライバーとしてテスト三昧の日々を送っていた。その対価として、アーバインは若手F1ドライバーの年棒をはるかに上回るギャランティを受け取っていた。実際、アーバインは94年にジョーダンでレギュラーシートを獲得した時、「ギャラが日本で入っていた頃の半分以下になった」とこぼしていたのは有名な話だ。

 アーバインはバブルの熱気が冷めやらぬ東京の生活が気に入っていた。六本木の街を自転車で駆け回り、のちにF1ドライバーとなる親友のローランド・ラッツェンバーガーなどの外国人ドライバーとつるんでよくパーティをしていた。

 そして懐具合が寂しくなると、目黒のホビーショップにひとりでフラっと現れ、レーシングウェアやチームのグッズなどを売っていたという。値段交渉を自ら行ない、受け取った札束を手に、また六本木へと繰り出す。そんな生活を満喫していたようだ。

「全日本F3000やジョーダンの時代はいろんなものを売りにきました。フェラーリのドライバーになると、さすがにレーシングスーツやヘルメットなどの”大物”は持ち込みませんでしたが、日本GPの前後には必ず顔を出していましたね。あのお金は六本木での飲み代になっていたと思います」と元ホビーショップの店員は笑いながら語っていた。

 日本での活躍もあり、アーバインは93年の第15戦日本GPでジョーダンからデビューするチャンスをつかむ。鈴鹿でのF1デビューは世界に衝撃を与えた。

 この年のジョーダンは日本GPまでノーポイントだったが、スポット参戦したアーバインは予選で8位を獲得、決勝でもデーモン・ヒルや若きシューマッハと堂々とバトルを演じ、6位でフィニッシュ。初出場で初入賞という快挙を達成するのだった。

 さらにレース後、もうひとつの衝撃がサーキットを駆け巡る。日本GPを制したアイルトン・セナがジョーダンのピットに足を運び、アーバインに対して「なぜ周回遅れになる時に素直に進路を譲らないんだ……」と説教をすると、なんと彼は「俺は自分のレースをしていただけさ。あんたが遅かったから」と言い返したのだ。新人に反論されたセナは激高し、思わずアーバインを殴打するという一幕があった。

 のちにアーバインは、「金曜日か土曜日のセッションでセナにブロックされたので仕返しのつもりだった」と告白しているが、世界チャンピオンにもまったく臆することなく、我が道を突き進むのが彼の魅力だった。

 94年からジョーダンのレギュラードライバーとなったアーバインはデビュー3年目の95年カナダGPで初表彰台を獲得。翌96年からは名門フェラーリに移籍することになる。

「これまでどのレースでもチームメイトに負けたことはなかった」と意気揚々とフェラーリで仕事を始めたアーバインだったが、シューマッハの走りを目の当たりにして愕然とする。「ミハエルだけは別格だった」と素直に実力を認め、自分の待遇に対する不満を内面に抱えながら、サポート役に徹する。

 そんな彼に99年、ビックチャンスが訪れる。シューマッハが第9戦イギリスGPでコースアウトして骨折。長期欠場を余儀なくされたことで、一躍、フェラーリのエースとしてマクラーレンのミカ・ハッキネンとチャンピオン争いを演じることになるのだ。

 シューマッハの代役をつとめた全日本F3000時代の僚友ミカ・サロの好アシストもあり、アーバインはシーズン4勝を挙げ、ハッキネンに対して4点差をつけて最終戦の日本GPを迎える。しかし、さすがの彼もプレッシャーを感じたのか、予選でクラッシュ。決勝でもハッキネンに惨敗して3位に終わり、タイトルを逃した。

 それでもフェラーリに16年振りにもたらしたコンストラクターズ・タイトルを手土産に新生ジャガーに移籍。シューマッハと同じエースという立場でタイトルを狙うことになったのだが、3年間で表彰台2回のみという期待外れの結果に終わる。アーバインはジャガーとの契約が切れた2002年シーズン限りでF1を去ることになった。


ジャガー移籍後、アーバイン(写真左)はバリチェロ、シューマッハと表彰台に上ったこともあった

 引退後は持ち前の商才を発揮し、不動産ビジネスで大成功。ニューヨークに家を持ち、カリブ海の島国バハマにはプライベートアイランドを所有しているという。また故郷の北アイルランドではスポーツ施設の経営も行ない、ボートで世界各地のビジネス拠点を回るという優雅な人生を楽しんでいるようだ。

 プレイボーイぶりは相変わらずで、「著名なモデルや女優を新しい恋人にした」「クラブで女性を巡って乱闘騒ぎを起こした」というゴシップニュースを定期的に提供し、時折、サーキットに現れると、「今のF1はあらゆる面で管理されすぎていてつまらない」などと、歯に衣を着せぬ発言をして去っていく。

 最近のF1は優等生タイプのドライバーが多いが、そればかりでは面白くない。ワイルドで型破りでタブロイド誌を賑わす。そんな個性的な選手がもっと増えてほしい。

【profile】
エディ・アーバインEddie Irvine
1965年11月10日生まれ。イギリス・北アイルランド出身。父の影響でレースを始め、イギリスF3、F1直下の国際F3000(現在のFIA F2)までステップアップを果たし、90年にはランキング3位。1991年より全日本F3000選手権へ参戦し、チーム・セルモに所属した。3シーズン目にはランキング2位に輝く。F1ではジョーダン、フェラーリ、ジャガーの3チームに所属し、通算4勝。ポールポジションの獲得は一度もなく、表彰台には26回上がっている。F1のデビュー戦でセナと”場外乱闘”をしたが、実はセナの大ファン。ヘルメットのデザインはセナのカラーリングを模したものだった。

著者:川原田剛●文 text by Kawarada Tsuyoshi