日本プロ野球名シーン
「忘れられないあの投球」
第5回 日本ハム・大谷翔平
CSファイナル第5戦(2016年)

 ある漫画家が、呆れたような口調でこう吐き捨てた。

「大谷が出てきたせいで、プロ野球の漫画を描きたいと思わなくなりましたよ」

 フィクション泣かせの実在の人物。それが大谷翔平である。

 2016年10月16日、日本ハムとソフトバンクのクライマックスシリーズ(CS)ファイナル第5戦。勝てば日本ハムの日本シリーズ進出が決まる大一番に、大谷は「3番・指名打者」で先発出場する。7対4とリードして迎えた9回表、日本ハムは指名打者を解除し、大谷をマウンドに送った。


日本プロ野球史上最速となる165キロをマークした大谷翔平

 もし、大谷の出現以前に漫画家がこんなシーンを作中に描こうと思ったら、世に出る前に担当編集者からボツを食らっていたに違いない。それだけ大谷の”二刀流”は現実離れしていた。投手と指名打者の2部門でベストナインを受賞する人間が現れるなど、誰が予想できただろうか。

 そして大谷はこの日、自己最速の165キロを計測してしまう。

 一死から打席に吉村裕基(現・琉球ブルーオーシャンズ)を迎えた場面の初球。低めのストレートに吉村のバットが空を切ると、スタンドは猛烈な歓声に沸いた。スピードガンに日本国内で誰も見たことがない数字が表示されたからだ。

 とはいえ、大谷本人にとっては満足のいくボールではなかったに違いない。低めにわずかに沈んでいく球筋は、俗に言う「垂れる」ボールだった。それでも、「165」という数字と三者凡退で試合を締める圧巻の結果で、大谷は伝説になった。

 私はその6年前から、大谷翔平という選手を見てきた。最初に大谷を目撃した2010年10月8日13時59分に、私は自分のTwitterアカウントでこうツイートしている。

〈花巻東、初戦で敗れましたが、6回から投げた1年生・大谷翔平投手は衝撃でした。はっきり言って怪物です。1年生を誉めすぎるのは怖いですが、資格は十分あると思います。球界の宝であるダルビッシュのような投手になってほしい。 #kokoyakyu〉(@kikuchiplayerより)

 たまたま球場にいられた私が幸運だっただけで、誰が見ても同じような感想を漏らしたに違いない。それほど大谷の素材は類を見ないものだった。

 当時のサイズは身長191センチ、体重68キロ。四肢をムチのようにしならせ、全身の力を指先から伝えてリリースする。これだけの長身なのに、自分の体をイメージ通りに動かしていることがうかがえた。

 その日の最高球速は147キロだったが、球速以上にしびれたのは、低めギリギリのストライクゾーンに収まる爽快な球質だった。重力に逆らうように捕手のミットを突き上げる、思わず球審の腕が上がってしまうボール。球速だけを見れば6年後の「165キロ」が圧倒的に上なのは言うまでもないが、球質なら高校1年時に見せた「落ちない低めのストレート」のほうが鮮烈だった。

 大谷の1年冬には、当時私が編集部員として勤めていた『野球小僧』(現・野球太郎)でインタビューをした。大谷にとって、試合後の共同記者会見以外で個別インタビューを受けたのはこの時が人生初だったという。こちらの質問に一つひとつ頭を悩ませ、短いセンテンスで答える、初々しいインタビューだった。

 そんななか、大谷が唯一胸を張って答えたのは、将来の夢について聞いたときだった。大谷はこう言った。

「世界で通用するプロ野球選手になりたい」

 今となっては、十分に目標を達成したと言える。世界で通用するどころか、世界の野球史に残る選手になったと言っても過言ではない。

 だが、もし大谷を取り巻く環境が常識に縛られていたら、「投手・大谷」は高校時点で終わっていたかもしれない。

 というのも、大谷は高校2年時に股関節の骨端線損傷を負い、本来の投球を見せられなくなっていたからだ。2年夏、3年春には2季連続で甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退。股関節をかばい、左足の踏み込みが浅い痛々しい投球フォームだった。

 その一方で、著しい成長を見せたのがバッティングだ。長期間にわたって本格的な投球練習ができなかった分、打撃練習をする機会が増えた。その結果、高校入学直後から中軸に座るほど高かった打力がさらに向上。3年生になると、大谷は手がつけられないほど打ちまくった。

 1年秋の「投手・大谷」にひと目惚れした私としては、複雑な心境だった。会うスカウト、会うスカウトが「打者・大谷」を絶賛するからだ。なかには「松井秀喜(当時・レイズ)に匹敵する素材」と熱っぽく語るスカウトもいた。

 3年春の岩手県大会、野手として出場を続ける大谷に直接聞いてみた。「投手と打者、本当にやりたいのはどちらですか?」と。すると、大谷はにっこりと笑って、「ピッチャーです」と答えた。取材後に握手を交わすと、こちらの想像を超える強い握力でぎゅっと握り返してきたのが印象的だった。

 その後、夏にかけて状態を高めた大谷は、岩手大会準決勝・一関学院戦で自己最速となる160キロをマークする。決勝戦の盛岡大付戦で敗れ甲子園出場はならなかったものの、「投手・大谷」は復権したかに見えた。

 ところが、「打者・大谷」の評価は揺らがなかった。ドラフト会議前に『野球小僧』で20人のスカウトを対象に行なったアンケートでは、「大谷翔平は『投手』『打者』どちらの能力を高く評価していますか?」という設問に対し、「打者」と答えたスカウトは過半数を超える12名。「投手」は6名、「どちらも捨てがたい」は2名だった。

 このアンケート結果は大谷本人も読んでおり、ドラフト会議直前には「自分の考えと周りの評価のギャップを感じました。本当に投手でいいのか、打者なのか。悩んでいる面もあります」と心境の揺れを明かした。その後、大谷は高校卒業後のMLB挑戦を表明し、日本ハムの強行1位指名、日本ハム側の熱心な説得によってNPB入り……と目まぐるしく状況が変遷していく。

 大谷を翻意させた最大の要因は、日本ハムが”二刀流”という選択肢を示したことだった。高校時代の大谷はいつも、「人がやったことのないことをやりたい」と語っていた。高校の授業で一番好きだという日本史について聞くと、大谷はその魅力をうれしそうにこう述べた。

「とくに幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。『革命』や『維新』というものに惹かれるんです」

 分業化が進む現代プロ野球で、二刀流として成功する初めての選手になりたい──。だから、大谷は日本ハムを選んだのだ。

 その4年後、ソフトバンク戦での「165キロ」は、二刀流・大谷翔平にとってひとつのクライマックスになった。

 もし、高校卒業後すぐにMLBに進んでいたら。もし、野手評価のままプロ入りしていたら。もちろん、それはそれで球史に残る野球選手になっていたに違いない。だが、世の価値観をひっくり返すほどのスケール感はなかったはずだ。

「投手・大谷」が見られる選択肢を残し、環境を整えたのは、もちろん北海道日本ハムファイターズである。私はこの功績だけでも、野球殿堂入りに値すると思っている。

 いずれそう遠くない時期に大谷が投手、または野手に専念する日が訪れるかもしれない。それでも、私たち野球ファンは大谷が生きた時代の証人として、その超人的なパフォーマンスをこれからも目に焼きつけておいたほうがいい。後世の人間から「そんな選手、実在したはずがない」と言われても、はっきりと否定できるように。

著者:菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro