高校野球・名将たちの履歴書
第2回 狭間善徳(明石商)

 明石商・狭間善徳監督は喜怒哀楽を隠さない。チャンスをものにしたり、チームが勝利すると喜びを爆発させ、味方選手がミスをすると心底悔しがる。昨年の甲子園ではベンチで見せるド派手なガッツポーズが話題になった。

 今や甲子園常連校の監督として知られる狭間だが、初めて甲子園の土を踏んだのは2016年の春、51歳の時だった。


昨年、チームを春夏連続して甲子園ベスト4へと導いた明石商・狭間監督

 そもそも狭間が高校野球の指導者になりたいと思ったのは17歳の時。

「だから(体育教師を目指し)大学も日体大に行きましたし、卒業してからは兵庫の高校に講師として赴任し、コーチの立場で指導していたんです」

 大学卒業後は母校の明石南、高砂南でそれぞれ1年ずつ勤務したが、常勤の教員としての採用枠は少なく、高校野球の指導者をあきらめて一般企業に就職。会社員となり3年目で結婚することになったが、思わぬ話が舞い込んでくる。

「ある関係者から『明徳(義塾)で指導しないか』と言われまして……。高知には行ったこともないし、縁もゆかりもないところ。実際、学校に行くと山奥にあって、『ここで野球を教えるんか……』って不安しかありませんでした」

 そんな狭間の背中を押したのは、当時婚約者だった妻・智子さんのひと言だった。

「『ネクタイ姿よりユニフォーム姿のほうがいいんじゃない。私は行ってもいいよ』って言われて決心したんです」

 明徳義塾高校の馬淵史郎監督からも「こんなところになかなか指導者は来てくれないけれど、来てくれるならありがたい」と言われた。狭間は一念発起し、未踏の地・高知へと赴くことになった。

 朝6時前に起床し、全校生徒との朝礼から1日が始まる。午前の授業が終わると、午後1時半から練習が始まるためグラウンドに出向く。4時になると、今度は中学生の指導にあたる。その後、高校の部員が夜間練習を始めるため、夜遅くまでつきっきりで指導することもあった。

 1993年からは明徳義塾中学の軟式野球部の監督に就任。その傍らで、これまでどおり高校の馬淵監督の下でコーチも務めた。

 明徳といえば、人里離れた山のなかに校舎、グラウンド、寮があり、携帯電話は禁止、テレビも限られた時間しか見ることができない。まさに”野球漬け”の生活である。そんな地に覚悟を決めてやってきた選手たちに、狭間は真摯に向き合った。

「夜にラーメンを食べさせながら悩みを聞いたりしてね。24時間ずっと一緒にいたら、子どもの性格はすぐにわかるんです。でも、そこで馴れ合いになったらダメ。いま、選手との距離感を気にしすぎて友達みたいになっている指導者がいるでしょ。それはちょっと違うと思うんです。怒るときはビシッと怒らないといけないし、褒める時はしっかり褒める。もちろん、一人ひとり性格が違うので、みんな同じ接し方をしてもいけない。それぞれの性格を見極めて、いかに接することができるかだと思いますね」

 アメとムチをうまく使い分けながら、明徳では中高で計13年間指導し、中学の野球部監督として4度の全国制覇へ導いた。中学野球界きっての名将となった狭間だが、2005年、地元である明石市が「一芸に秀でた民間人採用試験」で野球部監督経験者を募っていることを知った。

 故郷に恩返しがしたいという思いも働き応募すると、採用が決まった。当時、中学野球で不動の地位を築いていたが、「それ以上に高校の指導者になりたかった」と若かりし頃からの夢を追いかけた。まだ40代前半だったこともあり、「挑戦するなら今」と決意した。

 2006年に明石商のコーチに赴任した狭間だが、待っていたのは明徳野球部とは正反対の環境だった。グラウンドには雑草が生い茂り、練習開始時間になっても部員は集まらず、グラウンドに来たかと思えば遊び半分に動き回る選手もいた。当然のように県大会では勝ち上がることはできなかった。

「まさにゼロから……いや、マイナスからのスタートやったね。正直、初日で辞めようかなと思いました」

 それでも明徳で培ったノウハウを生かそうと、狭間は奔走した。翌2007年からは監督に就任。熱血指導でチーム強化に取り組んだ。

 練習スタイルは当時も今も変わらない。いわゆる”鍛え上げる”スタイルだ。

「うちは一流の選手が来るわけではなく、まずは基礎をしっかり叩き込むスタイル。基礎ができて、応用を教えていきます。そこで初めて技術が上がるんです。一流の選手は基礎を教えなくてもできるので、いきなり応用を教えてもできるけど、うちに来るような子はできない。だから、基礎を徹底的に教え込みます」

 指導熱はとにかく熱い。昨年のドラフトで楽天から7位指名を受けた教え子の水上桂は、以前こんなことを話していた。

「教えるにしても、口だけで終わらせるのではなく、身振り手振りで教えてくれるんです。試合になると、自分たちをやる気にさせてくれる言葉をかけてくれます。(去年の)夏の県大会決勝で劣勢だった時、『ベンチ外の選手のためにも全力で戦え。それでダメだったら仕方ない』と言われて。スタンドで大きな声を出して応援してくれている仲間のことを思うと、自然とやる気が出て。だから逆転して、甲子園に行けたんだと思います」

 いつも狭間は「子ども(選手)のために一生懸命やりたい」と言う。明徳時代からずっとそうだ。子どものためならどんな努力でもすると狭間は言う。

「試合前は対戦相手の映像を擦り切れるほど見るから、睡眠時間なんて2時間くらいは当たり前です。でも、子どもたちが『勝ちたい』と必死だし、彼らの喜ぶ顔を見たいですからね」

 もうすぐ56歳になるが「そんなパワーがなくなった時は(高校野球の監督を)辞める時です」と狭間は笑う。叩き上げで培われた執念と冷めることのない野球への情熱が、今の狭間をつくり上げていると言っても過言ではない。

 これまで5度甲子園に出場(今春のセンバツは出場決定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大により中止)し、昨年は春夏連続してベスト4進出を果たした。全国屈指の強豪校となった今、目指すものはひとつしかない。それでも決して欲を出さないのが、いかにも狭間らしい。

「基礎を大事に毎日正しくコツコツと積み重ねていくこと。これは今後も変わらないです。しんどい練習ばかりですけど、しんどい思いをして人の痛みはわかるもの。(選手たちには)そういう人間になってくれたら……」

 本当の覇者とはそういうものだというのを、選手たちにわかってほしいと思っている。そして、ひとりでも多くの教え子がそうした人になってくれれば……と狭間は切に願っている。

(文中敬称略)

著者:沢井史●文 text by Sawai Fumi