PLAYBACK! オリンピック名勝負———蘇る記憶 第34回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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ロンドン五輪・競泳男子400mメドレーリレーで銀メダル獲得が決まり喜ぶ北島康介ら日本チームメンバー

 水泳のメドレーリレーは、4人の選手たちがそれぞれ異なる4泳法でつないでいく競技だ。世界大会では最終日に行なわれ、各国の総合力の高さが示される種目でもある。2012年ロンドン五輪は、日本男子が過去最高順位の2位に入って銀メダルを獲得。それは、2000年代から日本の競泳を牽引し、新たな歴史を作り上げてきた北島康介にとって、集大成といえるメダルだった。

 北島は08年北京五輪後、しばらくの休養期間を経て、アメリカを拠点に競技を再開。09年11月20日の東京スイミングセンタージュニア優秀選手招待公認記録会(東スイ招待)で復帰を果たした。10年のパンパシフィック選手権は、100m平泳ぎで優勝。予選は59秒04の好タイムを出して1位通過だった。200mも決勝で2分08秒36の大会新記録で勝利し、2冠を獲得した。この両タイムはともに同年の世界ランキング1位記録で、復活のアピールに十分な内容だった。

 翌11年、中国で開催された世界選手権は、現地で体調を崩した影響もあって100mは1分00秒03で4位。200mは、ラスト50mでダニエル・ギュルタ(ハンガリー)に逆転されて2分08秒63の2位という結果に終わった。

 だが、五輪イヤーの12年になると底力を見せつけた。4月の日本選手権では最初の種目だった100mを58秒90の日本記録で制し、200mも非高速水着の世界最高記録となる2分08秒00で優勝。4回目の五輪へ駒を進めた。

 泳法も進化していた。かつてのキックを効かせて水の抵抗を受けずに泳ぐものから、アメリカタイプのパワフルな腕の掻きも習得し、北島の泳ぎはプルとキックのバランスが調和した新たな完成領域に達しようとしていた。

 4月末には、アメリカ・アリゾナ州のフラッグスタッフ合宿で、北島とよく一緒になり交流もあったアレクサンドル・ダーレオーエン(ノルウェー/北京五輪100m平泳ぎ2位、11年世界選手権同種目優勝)が、心臓まひで急死するショッキングな出来事があった。これにより、北島は大会前ランキングで100mと200mともに1位でロンドン五輪に臨むことになった。

 北島は、アテネと北京に続く100mと200mの五輪3大会連続2冠を日本中から期待されていた。しかし、彼が新たに完成を目指す泳ぎは、繊細な動きの調和が必要不可欠だった。その微妙なズレに苦しんでいた。

 そんな中、北島のロンドンでの戦いは始まった。まず100m平泳ぎ予選は、59秒63で2位通過とまずまずの出だし。同日夕の準決勝では、前年世界選手権3位のキャメロン・ファンデルバーグ(南アフリカ)が58秒83の五輪新記録を出す。ファンデルバーグは、平井伯昌(のりまさ)コーチの指導を受けに来日したことがあり、北島にとってダーレオーエンとともに親交のある選手だ。一方、北島は59秒69と記録を下げて6位通過。暗雲が漂っていた。

 翌日の100m決勝。北島は、最初の50mを4月の日本選手権よりも0秒09遅い27秒78で5番手通過。後半も日本選手権より0秒80遅い32秒01。結局、59秒79で5位だった。優勝はファンデルバーグで、タイムは58秒46の世界記録。2位のクリスチャン・スプレンガー(オーストラリア)は58秒93で、3位のブレンダン・ハンセン(アメリカ)は59秒49。北島が本来の力を出し切っていれば、メダル圏内には届いていたはずだった。

「足がよかったら手がダメになって、手がよくなったら足がダメになって……。行ったり来たりの繰り返しでした。この数日間は、頭の中でいろんなことを考えながら泳いでいて、泳いでいるうちに迷いが出てきた。それがすごく苦しかった。200mは『余裕をもった泳ぎで行こう』と切り替えるしかない」

 そう話した2日後に始まった200m平泳ぎ。北島の予選は2分09秒43で5位通過。準決勝も5位通過ながら2分09秒03とタイムを上げた。そして決勝では、スプリンガーが持つ世界記録のラップタイムを0秒17上回る28秒64で入ると、100m通過も0秒10上回る1分01秒40と、先頭で折り返した。

 だが、150mではギュルタに0秒31逆転されて2番手に後退。ラスト50mではマイケル・ジャミーソン(イギリス)に抜け出されたが3番手で粘り、追い上げてきた1レーンの立石諒と激しいデッドヒートを繰り広げる展開になった。最後の最後はタッチの差で立石に0秒06逆転され、北島は2分08秒35で4位という結果になってしまった。

「残念は残念だし悔しいけど、100mに比べれば自分らしい泳ぎはできました。これまでずっと、前半から(攻めて)いく泳ぎをしていた。だから、ラスト50mまでためて勝負、というよりも自分の泳ぎに『トライしてやろう』という気持ちでした。五輪の舞台で最後に自分らしさをちゃんと出して個人競技を終われたし、諒がメダルを獲ってくれたので、本当に悔いはないです」

 100mの時とは違って、200mでは何の不安を抱えることなく入場できたという。メダルには届かなかったが、北島は見ている者たちを感動させる泳ぎをした。だからこそ、競技最終日のメドレーリレーでは、チームメイト3選手の心の中に「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」という強い思いが芽生えたのだ。

 この時のチームメイトとは、入江陵介と松田丈志、藤井拓郎の3人だ。背泳ぎの入江は、この大会100mで銅、200mで銀を獲得。北京五輪後から背負い続けた「日本チームの真のエースにならなければいけない」というプレッシャーに見事打ち勝っていた。

 バタフライは、北京五輪で6位、11年世界選手権は5位に入った100mのスペシャリスト藤井がいた。しかし藤井は100m自由形でも48秒49の日本記録保持者で、前年の世界選手権で唯一100m自由形に出場していた選手だ。したがって、このメドレーリレーは自由形で泳ぐ立場だった。

 バタフライを志願したのが、今大会200mで北京五輪と同じ銅メダルを獲得した松田丈志だった。前年からスプリント力の強化に注力し、100mの記録では11年の夏前に52秒77だったベストタイムを9月には52秒61に伸ばした。さらに12年1月には52秒25に短縮。12年4月の日本選手権は、藤井に次ぐ2位になり、五輪代表に選ばれていた。

 メドレーリレー決勝で、第1泳者の入江は100m優勝のマシュー・グレイバース(アメリカ)に0秒24差をつけられたが、3番手には0秒48差を開く52秒92の2位でつないだ。すると、リアクションタイム0秒08という絶妙なタイミングで飛び込んだ北島は、アメリカのハンセンとの差を前半から詰めていく。そして、全体1位の58秒64のラップタイムで泳ぎ、アメリカに0秒21差をつけてトップに立つという、北島らしい気迫の泳ぎを見せたのだ。

 引き継いだ松田も、リアクションタイム0秒12という攻めの泳ぎで続き、アメリカのマイケル・フェルプスに首位を奪い返されたものの、全チーム中3番目となる51秒20のすばらしいラップタイムでつなぎ、3位のハンガリーに1秒47差をつけた。激しく追い上げていたオーストラリアとの差も、松田が受け継いだ時の1秒26差から逆に1秒60差まで広げて、最後の藤井に託した。

 藤井のラップタイムは全チーム中7位の48秒50。100m自由形で、0秒01差で金を逃したジェームズ・マグヌッセン(オーストラリア)の追い上げを0秒32差で抑え切り、2番目でゴール板にタッチした。

 メドレーリレー初出場で、チーム主将でもあった松田が「このメンバーで結果を出せない訳が絶対ないと思っていた」というように、各選手が力を出し切って獲得した銀メダルだった。

「五輪で新しい挑戦ができてよかった。自分の人生にいい経験になったし、水泳の難しいところがあらためて好きになった。僕はまた、五輪を通じて成長させてもらった気がします」

 そうロンドン五輪を総括した北島は、後輩たちの活躍について「こんなに成長していることが誇らしい。毎日1個ずつメダルを獲っていたし、本当に強いチームだと思う。個人では取れなかったメダルを、チームとして首にかけさせてもらったから、何も言うことはないです」とも語った。

 過去に金メダル4個とメドレーリレーの銅メダル2個を獲得してきた北島にとって、これが初めての五輪の銀メダル。それは日本水泳界を牽引し続ける29歳の北島へチーム全員からの感謝を表す勲章でもあったのだ。

著者:折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi