メジャーリーグでは、日本と違ってプロ入りしたばかりの新人が「即戦力」となるケースは極めて少ない。たまにあっても大学経由で、高卒となるとドラフト制度施行後は皆無に近い。どんなに上位で指名されてもまずマイナーで経験を積ませるのは、デビッド・クライドの失敗が繰り返されるのを避ける意味でも賢明だろう。

 1973年6月5日の新人ドラフトで、テキサス・レンジャーズはヒューストンのウエストチェスター高校のクライドを全体1位指名した。高校最終学年では18勝0敗、うち14勝が完封。史上最高の高校生左腕とまで言われた大器である。

 だが、この金の卵をじっくり育てようという考えは、オーナーのボブ・ショートにはなかった。前年の観客動員が年間66万人余りと不人気に苦しんでいたショートにとっては、クライドは最高の目玉商品だった。ショートはクライドをすぐメジャーで使うようホワイティ・ハーゾグ監督に命令。卒業式から19日後、6月27日のミネソタ・ツインズ戦でのデビューが決まった。ショートの目論み通り、当日の観衆は3万5698人。それまでの平均9120人の4倍近い盛況だった。
  クライドは大観衆の期待通りの好投を演じた。立ち上がりにいきなり連続四球を与えるも、三者連続三振でピンチを脱出。2回に先制2ランを打たれたが、その後は無失点に抑えて5回を投げ切り、7四球を与えながらも8奪三振、ヒットはホームランの1本に抑えて見事、初登板初勝利を飾った。

 最初の11試合で4勝4敗、防御率3.27と健闘していたクライドだったが、その後は1勝もできず防御率は5点台まで悪化した。球威はあっても制球力が身につかず、結局メジャー通算18勝どまり。促成栽培の代償は高くつき、「肉体的にも精神的にも、彼にとっては最悪の決断だった」とハーゾグは嘆息している。マイナーで鍛えていれば、クライドが大投手になったかどうかは分からないが、近視眼的なオーナーたちに対しての戒めとなったことだけが救いだろう。

 失意のまま引退したクライドはアルコールに溺れた時期もあったが立ち直り、義父の材木業を手伝いながらリトルリーグのコーチも長く務めたという。

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。

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