世界一の競技人口を誇るバスケットボール。その最高峰リーグであるNBAには世界中から優れたプレーヤーが集結し、特に2000年代以降は外国籍選手の数も飛躍的に増加した。しかし、その中には己の実力を発揮しきれず、数年でアメリカを後にしたプレーヤーも少なくない。NBAに挑み、再び欧州の舞台へ舞い戻った挑戦者たちを、シリーズで紹介しよう。

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 6月25日(日本時間26日、日付は以下同)、惜しまれつつ現役引退を発表したヴィンス・カーター(元トロント・ラプターズほか)。彼が1巡目5位指名を受けた1998年のドラフトで、チャンスを得られずアメリカを去った男がいた。

 その男の名は、現在若手の指導者として注目を集めているリトアニアの至宝、サルナス・ヤシケビシャス。2018年夏には、ニック・ナースとともにラプターズのヘッドコーチ(HC)候補にも名が挙げられていた人物だ。
  現役時代のヤシケビシャスは、狙った的は逃さない正確無比なジャンパーで“欧州のスナイパー”と呼ばれていた。成功率9割を超えるフリースローはまるで機械のようで、同時に味方のシュートをお膳立てすることを無上の喜びとする頭脳派のフロアリーダーでもあった。

 2003年のユーロバスケットで母国を金メダルに導き、またクラブでもバルセロナやマッカビ・テルアビブ、パナシナイコスといった欧州を代表する強豪で計4度のユーロリーグ優勝を経験。彼がプレーするチームにトロフィーが付いて回るほどの“タイトル請負人”であり、指導者となった今でも、ヨーロッパのバスケットボールファンから絶大な尊敬を勝ち得ている。

 日の当たる道を歩き続けてきたかに見えるヤシケビシャス。しかし実際には、多くの挫折も味わっていた。

 リトアニアのバスケットボールの聖地カウナスで生まれ育ち、ジャルギリス・カウナスの大ファンだった彼は、同クラブ傘下のバスケットボールスクールでプレーを始め、高校3年時にアメリカへバスケ留学。当時のヤシケビシャスにとっての夢への第一ステップは、カレッジバスケットボール選手になることだったが、本人が熱望していたシラキュース大どころかスカウトの誘いはどこからも届かず、一時は心労やストレスから急性胃炎を起こすほど精神的に追い込まれていた。
  そんななか、ダメ元で参加した学生のオールスターゲームでMVP級の活躍を披露し、最終的にメリーランド大入りが決まる。しかし最初の2年はほとんど出番がなく、転校も考えていた3年時にガードのポジションに空きができたことで、ようやくスターティングメンバー入りを果たした。

 だが試合を重ねるうちに、コーチ陣から「スピードとアスレチック能力に欠けている」と指摘され、また彼自身もリトアニアでは対戦したことのなかった強靭な選手たちと対面し、自身の限界を感じていた。

 ひたすらジムに通い筋力トレーニングに励んだ結果、故郷で「ステロイド注射を打ったのではないか?」と書かれるほど体型が変わったが、それと引き換えにキレを失い、天性のバスケ勘も失われていった。恐怖を感じたヤシケビシャスは、その時「自分はNBAプレーヤーにはなれないと悟った」と、自著『To win is not enough. My life, My basketball』に記している。
  ドラフト指名は期待していなかったため、エージェントを雇い所属先を探してはいたものの、彼のようなタイプの選手を欲しがるチームがないことは自覚していた。と同時に、アメリカでプレーした5年間を顧みて「自分にとってのバスケットボールは、1オン1での勝利を至上とするものではない」という点に気づいたこともあり、また1から競技と向き合う思いで、ヤシケビシャスはヨーロッパに戻ることを決める。しかしそのとき彼の胸にあったのは“夢破れて”ではなく“自分をより高めてまた帰ってくる”、そんな思いだった。

 帰国後は母国のリエトゥーボから徐々にステップアップし、2003年夏にはバルセロナでユーロリーグ優勝、さらにユーロバスケットでリトアニアを金メダルに導くなど、クラブと代表の両方で欧州の頂点を極める。そしてこの時、ユーロバスケットの会場で彼を観察していたのが、インディアナ・ペイサーズのフロント職に就いていたラリー・バードだった。

 ユーロバスケット制覇後はイスラエルのマッカビ・テルアビブでも2年連続のユーロリーグ優勝を飾り、その間の2004年に行なわれたアテネ五輪では、グループリーグでティム・ダンカン(元サンアントニオ・スパーズ)らがいたアメリカ代表を破る大番狂わせを演じる。その試合でゲームハイの28得点をあげたヤシケビシャスは、トッププレーヤーへの階段を猛スピードで駆け上がっていた。
  NBA行きのチャンスが訪れたのは、その時だった。

 ちょうどフリーエージェントになっていた2005年夏、バードが直々に観て惚れ込んだペイサーズだけでなく、ユタ・ジャズやポートランド・トレイルブレイザーズ、クリーブランド・キャバリアーズも獲得に興味を示したのだ。

 勝利を重ね続けていたその時のヤシケビシャスにとっては“勝てるチームであること”が入団の最優先事項だった。当時毎年プレーオフに出場していたペイサーズと、レブロン・ジェームズや同胞のジードルナス・イルガスカスがいるキャブスで迷った結果、イスラエルまで口説きにきたバードの熱意に応えることを決めた。

 ペイサーズはちょうどその夏、長年フランチャイズを牽引したレジー・ミラーが引退し、クラッチプレーヤーだった彼の穴を埋められるシューターを求めていた。国際大会や欧州のコンペティションで、幾度となくラストショットを放つ勇敢さを見せつけてきたヤシケビシャスこそその存在になれると、バードやHCのリック・カーライルは期待していたのだ。
  しかし、ここでヤシケビシャスは失敗を犯してしまう。

 3年連続のユーロリーグ優勝、夏には国際トーナメントと休みなく走り続けてきた彼は、新天地に挑戦する前に心身ともにエネルギーを充填すべく長期休暇を取った。結果的に英気は養えたものの、ボールから遠ざかっていた期間の長さは、シーズン開始直後から本人に危機感を抱かせるほどコンディションを鈍らせていた。

 さらに、オフの間に観に行ったU2のコンサートで、熱狂してジャンプした際にヒザを負傷するというジョークのような災難にも見舞われる。幸いそこでまで深刻なケガではなかったが、開幕時のコンディションは同じポジションを競うジャマール・ティンズリーに到底及ばず。NBA挑戦1年目は75試合(うち先発15試合)に出場し、平均20.8分のプレータイムで7.3点、3.0アシストの成績にとどまった。

 そしてヤシケビシャスにとってもうひとつの、そして最大の失敗は、数ある選択肢のなかでペイサーズを選んだことだった。
  ペイサーズは2004年にピストンズ戦で世紀の大乱闘事件を起こしていたが、ヤシケビシャスが加入した2005年もチームの雰囲気は良好ではなく、エゴ剝き出しの選手たちに対してカーライルHCの統率力もまったく及んでいなかった。ティンズリーは飲酒した上にビーチサンダル姿で練習に現われると、「家に帰れ」と命じたカーライルHCに対し「お前が帰れ」と言い返す有様。また、ロン・アーテスト(現メッタ・サンディフォード・アーテスト)はタイムアウト中に「あんたがやりたいバスケットボールは俺にはできない。今日すぐに俺をトレードしろ!」とコーチを恫喝することもあった。2005-06シーズンのプレーオフ出場は奇跡的であり、崩壊はすでに始まっていたのだ。

 そんな状況だったから、2007年1月にゴールデンステート・ウォリアーズへのトレードを言い渡された時は、むしろ違う環境に行けることを喜んだ。ところが新天地に着くなりドン・ネルソンHCに「君はどんな選手なんだ?」と聞かれ、ヤシケビシャスは自分の運命を悟った。
  NBAではソフォモア(2年目)とはいえ、すでに欧州では立派なキャリアを築いた30歳のプレーヤー。しかもネルソンHCの息子ドニーは、リトアニア代表のアシスタントコーチを14年間務め、ヤシケビシャスの成長を身近で見てきた存在だった。

 そして指揮官はさらに念を押す。

「正直に言っておく。ポイントガードにはバロン・デイビスがいて、控えにはモンテイ・エリスを育てるつもりだ。君には、2人が使えない時に出てもらう」

 ウォリアーズでは26試合の出場で平均4.3点にとどまったが、それでもネルソンHCから一定の評価を得たヤシケビシャスは、もう1年残った契約を全うするつもりでユーロバスケットに出場すべく欧州へ戻る。ハリウッドでのキャリアを模索していた元ミス・ワールドの妻も、アメリカに残ることを希望していた。

 その間、代理人の下へはいくつかの移籍話が届いていた。NBAで彼に興味を示していたのは、グレッグ・ポポビッチHC率いるスパーズ。ヨーロッパでは、ギリシャのオリンピアコスとロシアのCSKAモスクワが、好待遇のオファーを提示していた。
  そんななか、アメリカに戻る気だったヤシケビシャスの心をとらえたチームがあった。ギリシャの強豪パナシナイコスだ。決め手となったのは、直接連絡してきたジェリコ・オブラドビッチHCの下でプレーしたい、という思いだった。

 アテネへの転居は離婚の原因にもなったが、ヤシケビシャスはここで選手としてさらに成熟する。在籍3年間すべてでリーグ優勝を果たし、2009年にはユーロリーグ、国内カップをあわせた3冠を達成。それだけでなく、欧州きっての名将からコーチ像を学んだことが、現在の彼の指導者としてのキャリアに生かされているのは間違いない。

 現役最後の2013-14シーズン、ヤシケビシャスは“ジャルギリスでプレーする”という子どもの頃からの夢をついに実現させると、翌年からは指導者側となり、昨季はチームを19年ぶりのファイナル4に導き銅メダルを獲得。適材適所を見極めた選手の起用法、プレーヤーと近い目線から彼らを鼓舞する人間力に加え、“稀代のフロアリーダー”と呼ばれた彼は戦術面にも長けていた。
  現在は、つい先日フェネルバフチェからの勇退を発表した恩師オブラドビッチの後任候補にも挙がった。また、メンフィス・グリズリーズやシカゴ・ブルズなど、NBAチームからもリストアップされている。

「NBAは紛れもなく世界最高峰のリーグだ」と語り、選手にとっても自分自身にとっても、目指す甲斐のある場所だと話したヤシケビシャス。しかし一方で「同じメンタリティや志を持って、勝利に向かえる人たちとともにできること」が、彼にとって一番大切なことであると強調する。

「NBAでは最初の選択を間違えると、その影響が最後までついて回る」というのが、彼が選手時代に得た教訓だ。ただ、彼の英語はネイティブ並で、誰とでもすぐに仲良くなれる性格だったため、アメリカでも生活面は満喫していた点が多くのヨーロッパ選手と違う部分だろう。

 46歳の指揮官が、これから過ごすバスケットボールキャリアはまだ長い。選手としては大成できなかった彼のNBAドリームは、これから先、コーチとして花開くかもしれない。

文●小川由紀子

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