背番号21の歴史を紐解くと、1960〜80年代はスコアラー、90年代〜現代は守備型の選手が多いという傾向がわかる。現在、欠番選手はビル・シャーマンやドミニク・ウィルキンス、ティム・ダンカンら5人だが、ケビン・ガーネットがその仲間入りを果たすのは、ほぼ確実だろう。

■バスケットボールを教わった義兄の21を継承するダンカン

 自分の背番号が永久欠番になるというのは、どんな選手にとっても栄誉であるはず。だがケビン・ガーネットは、ミネソタ・ティンバーウルブズ時代の背番号21を欠番とする考えには賛成していない。同球団史上最高の選手であるにもかかわらず、オーナーのグレン・テイラーに強い不信感を抱いているため、その気にならないのだそうだ。

 ガーネットはボストン・セルティックスに移籍した際は背番号5に変更したが、これは同球団の21番が欠番だったからである。1950年代のスター選手だったビル・シャーマンは、フリースロー成功率で7回リーグ1位に輝き、ビル・ラッセルらとともに主力としてセルティックスの4度の優勝に貢献。引退後はロサンゼルス・レイカーズのHCとして72年に優勝を飾って、選手と監督の両方で殿堂入り、21番で最初に欠番に指定された選手となった。シャーマンはMLBのブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャースにも在籍し、公式戦の出場がなかったにもかかわらず退場処分を受けた唯一の選手として、野球界にもその名を残している。
  背番号21で欠番となった選手はシャーマン以外に4人いる。デイブ・ビングはデトロイト・ピストンズ時代にシューターとして名を馳せ、68年にリーグ最多の2142点。平均得点ではオスカー・ロバートソンに次ぐリーグ2位だったが、当時は総得点で得点王を決めていたためビングがタイトルを獲得した。引退後は製鉄会社を創業して成功を収め、2009年からはデトロイト市長を務めるなど、多方面で活躍した。

 80年代にはアトランタ・ホークスのドミニク・ウィルキンスが、“ヒューマン・ハイライト・フィルム”と呼ばれた豪快なダンクで人気を博した。現在でも通算得点(2万3292点)をはじめ、多くの部門でホークスの球団記録を保持。退団後もセルティックス時代を除いて21番を背負い続け、ツイッターのアカウントも「DWilkins21」という徹底ぶりだ。ジョージア大時代もこの番号で、同校史上唯一の欠番となっている。ニューヨーク・ニックスやクリーブランド・キャバリアーズで13年間活躍した弟のジェラルドも、オーランド・マジック時代を除いて21番をつけ、さらにジェラルドの息子ダミアンもシアトル・スーパーソニックス/オクラホマシティ・サンダーで21番と、ウィルキンス一族とこの番号のつながりは強い。
  4人目の欠番はサクラメント・キングスのセンターとして鳴らしたブラデ・ディバッツだ。レイカーズとシャーロット・ホーネッツ在籍時は12番をつけていたが、キングスではモーリス・ストークスの欠番だったため、逆にして21番となった。

 そして5番目、最新の欠番となったのがサンアントニオ・スパーズに5度のタイトルをもたらしたティム・ダンカン。バスケットボールを教えてもらった義兄が大学で21番をつけていたのが、この番号を選んだ理由だという。なお彼の入団前年にスパーズで21番を着用していたのがドミニク・ウィルキンスだった。

 現役の21番も、ガーネットやダンカンのようにビッグマンの好選手が多い。ジョエル・エンビード(フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)とハッサン・ホワイトサイド(ポートランド・トレイルブレイザーズ)がその代表で、エンビードは「俺のロールモデル」と尊敬するダンカンの番号を選んだ。

 現在はマイアミ・ヒートで22番のジミー・バトラーは、シカゴ・ブルズでプロ入りした際に21番。元ブルズのスコッティ・ピッペンに憧れてマーケット大では33番だったが、ブルズでは当然欠番だったため21番に変更した。

 バトラーと同じ守備型ガードとして一世を風靡したのはマイケル・クーパー。80年代に黄金時代を築いたレイカーズの守備の要として、5度オール・ディフェンシブ1stチームに選出され、87年には最優秀守備選手賞を獲得している。現役ではロサンゼルス・クリッパーズのパトリック・ビバリーが守備の名手だ。
  70年代の背番号21はスコアラータイプが多く、アーチー・クラーク、シドニー・ウィックス、ワールド・B・フリーらがその代表格として挙げられる。80年代では、史上4人しかいないクァドラプル・ダブル達成者のアルビン・ロバートソン、クォーター29点&ハーフ39点のプレーオフ記録を持つスリーピー・フロイドが印象深い。

 90年代後半にニックスでPGを務めたチャーリー・ウォードは、フロリダ州立大時代にフットボール選手として、ハイズマン賞を獲得するほどのスーパースターだったが、トレーナーからアメフトより選手寿命が長いとアドバイスを受けてバスケに転向。しかし11年のキャリアで平均6.3点、4.0アシストと目立った数字は残せなかった。

 前述のシャーマン以外にも、指導者として成功を収めたケースは存在する。ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)、シクサーズなどで22年間コーチを務め、2度ファイナルに導いたジーン・シュー。オールスターに6度選出され、引退後はHCとして71年にミルウォーキー・バックスでリーグを制したラリー・コステロ、そしてABA時代のインディアナ・ペイサーズを率いて3度の優勝を果たした“スリック”ことボブ・レナード。通算1042勝しながら優勝と無縁だったリック・アデルマンも21番でプレーしていた。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2014年2月号原稿に加筆、修正。

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