寿退社したものの:夜、夫と娘を置いて向かった先。母となった女が密かに平穏を得る場所

寿退社したものの:夜、夫と娘を置いて向かった先。母となった女が密かに平穏を得る場所

結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

結婚したら、母親と同じように専業主婦になることに疑いを持っていなかった志穂。

だが、自立のため復職し、夫との仲も修復しかけたように見えたが、思わぬライバルもあらわれた。

そんな中、職場の社長からフルタイム勤務で働かないかと持ちかけられるが、家族のためにと断念。家庭も上手くいかず、思わず家を出てしまう。



ただ空を見上げるだけで


しんと冷えた夜の空気は、何故だか心地良かった。

涙を拭いて、適当な靴で外に出る。志穂は、ただただ歩いた。

行き先などない。

頬に当たる風を感じながら、ただひたすら歩くのだ。

時間にして、5分もなかったかもしれない。カッとなっていた志穂は、そのうち憑き物が取れたように落ち着きを取り戻していた。

最寄りのコンビニまでたどり着く頃には、自分の気持ちが随分とスッキリしていることに気がつく。

「私、一体何に対してイライラしたの…。」

義母に対して口走ってしまったこと、康介のLINE…。

だが、ただ独り歩き夜空を見上げただけで、何だか不思議と気分は晴れたのだ。

別に自分は、若い頃のように華やかな夜遊びが必要だったわけじゃない。

こうして一人の時間を、たった10分でも持てただけで色々なことを流せるような気がして、志穂は来た道を駆け足で戻っていった。


家に戻った志穂。康介は何と言う?

夫の変化


「あっ、やっぱり帰ってきた。ほらひな、ママだよ。」

「ママ!」

お風呂上がりの上気した頬で、康介に抱かれたひなが泣きながら手を伸ばしている。

しっかりと自分の首に巻かれた小さな手。

康介の話によると、お風呂から出て志穂がいないことに気がついた途端、火がついたように泣き出したという。

ひなは、苦しいほど自分にきつくしがみついている。志穂は、娘をひどく不安がらせてしまったことに気がついた。

「ごめんね、ごめんね。ママちょっとお散歩してたの。でも、もう絶対にひなを置いていかないから。」

志穂は、いつの間にかひなを抱きしめながら号泣していた。ひなに負けない位の、大きな声で。

康介との一番ひどい喧嘩の時も、ここまでの勢いで泣いたことはない。

ふと、康介が志穂の肩に触れる。

「俺じゃ、全然泣き止まなかったんだよ。」



きっと康介は、自分なりにひなを一生懸命泣き止ませようとしたのだろう。そこかしこにおもちゃや絵本が散乱しており、康介のスマホにはYoutubeが流れている。

そんな様子を見て、また胸に熱いものがこみ上げてきた。

少し落ち着いたひなの熱い背中をさすりながら、志穂は康介に向き合う。

「心配かけてごめんね。私、頭が混乱して…。実は、康介のLINEをまた見ちゃったの。それで、勝手に色々悪い想像した。クライアントの接待だって言ってたのに、仲よさそうなグループの写真が来てたし…。」

一瞬気まずそうな顔を見せたが、康介も続ける。

「いや、俺の方こそごめん。やっぱり昔からの飲み会の頻度とか、遊び方とかなかなか変われなくて。飲み会は絶対参加の雰囲気だし、本当のこと言ったらまたケンカになると思ったんだ。」

今の俺にはひながいるのにな、と言いながら、康介は志穂の手からひなを受け取ろうとする。

すると、ひなが「ママいいの!」と志穂にしがみつく。

その顔があまりにも可愛らしく、康介と志穂は思わず笑ってしまう。

幸せだ、と思った。

ニコニコした自分たちを見て、ひなもいつの間にか笑っている。

好き合って結婚し、授かった宝物。

志穂が働き始めてからは色々と障害も多かったが、今の自分たちならきっとやっていけるだろう。

思う存分涙を流したからだろうか、出産以来のわだかまりも少しずつ溶けていっているような気がする。康介が自分を見る目にも優しさを感じた。

その晩は久々に何も考えず、ぐっすりと眠ることができた。


家庭の問題は解決したかのように見えたが…

コントロール出来ない問題


「え…お熱、ですか?」

幼児教室からの電話だった。

上司の篠崎ちゃんや社員の女子たちと『レストラン ズッカ』でランチをしていた志穂は、思わず立ち上がってしまう。



ひなが熱を出してしまったというのでお迎えに行かなくてはならないのだが、今月は、もう2日間もひなの体調不良で休んでしまっている。

いくらパートの身とはいえ、職場にこれ以上迷惑をかけるのは忍びない。

だが、仕方がない…。

幼児教室は、少しでも普段と様子が違えばすぐにお迎えに来て欲しいと連絡が来てしまうのだ。

この間などは、熱もなく「なんとなく元気がない」と言われお迎えに行ったが、当の本人はけろっとしていた。

ドッと疲れが出たのを思い出す。

「いいよ志穂ちゃん、荷物持ってこのままお迎え行ってあげて。お疲れ様!」

年下の上司、篠崎ちゃんは理解があり優しい。

それが唯一の救いだ。

世の中には子供の熱で早退をするたびに気まずい思いをする職場もあるというが、篠崎ちゃんや理解ある社長のおかげで、今の所そうした思いをしたことはない。

幸運だと思った。

食べかけのパスタを儀礼的に口に詰め込み、身支度をしてレストランを出ようとしたその時だ。

「ママって大変だよね。でもいいな〜、子供が熱って言えばすぐ帰れて。」

背中越しに聞こえたその一言に、志穂は思わず固まってしまう。

社員の女の子の何気ない、おそらく悪気すらもない一言だった。

だが、志穂の耳はカッと熱くなり、そのまま後ろを振りかえることも出来なかった。

残った仕事を振られるのは、彼女なのだろうか。聞こえるように言ったのか、それとも…。

だが志穂にとっては、彼女に悪気があってもなくても、「子供が熱といえばすぐに帰れる」と思われている時点で心外であった。

好き好んで早退をするわけではない。

自分は働きたいのに、コントロール不能な事態に対応しているというのにこの言われようはないだろう、と思ってしまう。

思わず、娘を迎えに行く足が早足になる。

幼児教室にひなを迎えに行くと、おでこに熱冷ましを貼られたひなが自分を待っているのが見える。

同僚の女の子の思わぬ一言に戸惑ったものの、自分を一途に待つひなの姿を確認すると、いつしかそんな動揺は消えていた。

ひなを抱くと、より一層心が落ち着く。ずっしりと重い、自分にしか守れない、この愛おしい存在。

子供を育てながら働くということは、少なからず今日のような経験もするということなのだろう。

だが、それでいちいちめげたり挫折するわけにはいかない。

志穂はいつもより丁寧に幼児教室の先生にお礼を言うと、自分にべったりと寄り添うひなを、もう一度強く抱きしめた。


▶NEXT:10月19日 木曜更新予定
いきなり職場から突きつけられた現実に戸惑う志穂


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