駐在の切符を手にした、理系エリート男。夫の純粋で残酷な愛が、妻を追い詰める…

駐在の切符を手にした、理系エリート男。夫の純粋で残酷な愛が、妻を追い詰める…

駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。

共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。

夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクに来た里香子。駐妻たちのマウンティングに意気消沈しかけるも、バンコクで働く友人ケイと、同じく駐妻の雪乃に励まされる日々。

里香子は、念願の昇進を果たした彬に言われた言葉がきっかけで家を飛び出してしまう。

一方、友人の雪乃は、夫・仁志が「女連れで空港にいた」とケイからの目撃情報が入ったことをきっかけに、夫の女遊びを知るのだった。

雪乃に密告したことや、タイ人彼氏の存在を隠してきた独身のケイは自己嫌悪に陥る。そこに、意外な訪問客、里香子の夫がやってきて―。



「ここ、ローカルのビジネスマンに人気のお店なんです。味は良いんですけど、車で来づらいせいか日本人の奥様たちはスルーしてて、穴場なんですよ」

ケイはそう言うと、さっと手を挙げてランチのプリフィクスコースをオーダーした。

二人で食事をするのはもちろん初めて、しかも彬が会社に押しかけた形だ。恐縮している彬の気持ちを慮って、ケイは殊更気さくに振舞ってくれているようだった。

彬は、ウェイターがグラスにペリエが注ぐのを待ってから、改めてケイに頭を下げた。

「お気遣い、ありがとうございます。突然2人で昼食を、などとお願いして申し訳ありません。里香子は今日、ボランティアで孤児院に行っていて、このことは話していません」

日本人に詮索されないようにと、ケイはとっさに店を考えてくれたのだろう。彬は彼女の機転に感謝した。

「貴重なお時間をいただいているので、単刀直入に相談させていただきます。実は昨日、里香子と口論になって…。里香子をとても傷つけてしまいました」

ケイはちょっと目を見張ってから、「なるほど」と先を促す。

「昇進が決まって、調子に乗った僕が、『里香子も東京にいた頃みたいに頑張れ』と言ってしまいました」

「それは禁句じゃないですか?あの里香子になんてことを…」

ケイが思わず突っ込んだ。


高学歴理系男子にありがちな、彬の思い込みとは?

「里香子と離れることを想定できなかった」


ケイの言葉に、彬は気まずそうに俯いた。そして少しずつ語りだしたのだった。



僕は埼玉県で育ち、浦和高校に進学しましたが、そこはむさ苦しい県下一の男子校でした。みんな比較的好きなことを好きなようにやっている集団です。

その後進んだ早稲田の理工も男子が圧倒的で、女の子にあまり縁がないままでした。

今思うと、そういう集団にいた期間が長くて、女の子に対しての言葉選びがぜんぜんなっていなかった。

そんな中、22歳で里香子に出会ったんです。

里香子は、何の取り柄も変哲もない僕に、最初からある種の敬意を持って接してくれたように思います。なぜかはわからないけれど。

里香子と話していると、自分がちょっと価値がある人間なんだと感じることができたし、心からくつろぐことができました。

出会ってからは他の人は考えられなくなった。

僕は里香子に恋をしました。深く、心から。



共通の趣味の将棋を口実にデートに誘い、いろんなことを話しました。僕と違って里香子はたいていのことはうまくやることができて、羨ましかった。

人気者で、いつもみんなが里香子と話したがっていました。

でも本当のことを言えば、里香子の人目をひく容姿や頭の良さはそれほど僕にとって重要ではありませんでした。

うまく言えないけれど、その中にある、まっさらな子供のような部分が、自分と重なっていると感じられたんです。



そこまで話すと、彬はぬるくなったグラスの水を喉に流し込んだ。そして苦しげな表情で続けた。

「バンコクに来るとき、僕は間違えました。一緒にいるのが自然すぎて、違う国で離れて生きることを想像できなかった。里香子も同じ気持ちだと、過信したんです」

「同じ気持ちだったと思いますよ、里香子も。だけど、里香子の焦る気持ちを、もう少し想像してあげないと」

ケイは、運ばれてきたサラダに手を付けない彬に構わず、食事を始める。

「そうですよね…でも焦る必要なんてないのに。里香子なら、数年後東京に戻って再就職するのは難しくない。あんなに頭が良くて仕事ができる人が、仕事がなくなるなんて本気で思ってるんでしょうか」

「あのね、彬さん。お言葉ですが」

ケイはため息をつきながら思わず食事の手を止めた。


理系エリート男子彬が知らない、文系キャリア女子が直面するハードルとは?

「里香子を、信頼しているんです」


「女性が、男性と同じように企業戦士としてアッパー層で活躍しようとした場合、男性が求められるそれよりもずっと、高いパフォーマンスが求められるんですよ」

「…そうなんでしょうか…この男女平等の世の中で?」

彬が驚いた様子を見せると、ケイは「これだから理系エリート男子は」とげんなりした表情を作る。

「専門知識がある技術職とは違います。単純な仕事量や、営業力がモノを言う世界で、妊娠・出産の可能性があり、転勤もさせにくい女性と、働き盛りの男性。同じ能力だったらやはり会社は男性をとるんじゃないでしょうか。

女性は、そういう前提を蹴散らせる程度に仕事ができないと、総合職としての居場所はないんです。里香子が手放したのは、努力に努力を重ねてつかみ取った、そういうポジションです」

彬は、確かに…とケイの言葉を噛みしめるようにうなずく。

「それに仕事を失ったことだけではなく、里香子はこれまでいたエリート会社員の世界から、まったく異なる専業主婦、しかも駐在妻の世界に来たんです。彬さんが急に『駐夫』になるようなものですよ」

「…里香子と一緒なら、それも楽しそうなどと思ってしまう僕は、本当におめでたいですね」

少し考えて、うなだれる彬の言葉に、ケイは思わず失笑した。

「彬さんて、難しいこと考えてそうだけど、よほど里香子より楽観的なんですね」

「はは。里香子を信頼してるんですよ。彼女がいれば僕は大丈夫って」



この人となら、大丈夫。

そんなシンプルな理由で、きっと彬は結婚したのだ。

「…そんな風に思えるのが羨ましいです。私は邪念ばっかり」

ケイが思わずつぶやくと、彬が笑った。はっとするような明るい声で。

「ケイさん、海外で好きなことを仕事にして、若くてキレイで健康。ものすごいことですよ。そのバイタリティと判断力があれば、何だって掴めます」

どうしてだろう、その声は、ケイの心に正面からすっと入ってきた。

いつも「もっと、もっと」と上を目指し、手に入らないものを見ては焦れていたケイに、彬の何のてらいもない言葉は、忘れていた気持ち、自分の現状に対する感謝のようなものを呼び覚ます。

胸に巣食っていた頑なな思い込みが、砂に吸い込まれる水のように少しずつ消えていった。

もっとシンプルでいいんだ。誰かと比べる必要もない。

そぎ落として、手のひらに残ったものを大事にすればいい。

「…なぜか私の悩みが軽くなってますけど。本題、里香子対策、考えないと」

随分と長いこと、呆けたように彬の顔を見ていたような気がしたが、おそらく短い時間だろう。ケイは我に返って、彬に言葉をかけた。

「はい。自分の最低行動を指摘してもらってから、真摯に考えたかったんです。里香子にとって、これから、何が最善なのか」

彬はとにかく食べます、と宣言すると、目の前の食事をするすると腹に収める。

その食べ方や姿勢が、もはやなんとなく里香子に似ていて、ケイは二人が積み重ねてきた歴史を思って少し笑った。


▶NEXT:7月19日 木曜更新予定
里香子の思いがけない転機。そして雪乃、絶体絶命のピンチ。



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