心の安らぎのため、人は愛を求める。

しかし、いびつな愛には…対価が必要なのだ。

―どこへも行かないで。私が、守ってあげるから。

これは、働かない男に心を奪われてしまった、1人の女の物語。

◆これまでのあらすじ

31歳の川辺望美は、役者志望のヒモ・ヒデを飼うことで過去の恋のトラウマを癒やしていた。無職だったヒデはあるきっかけで役者として成功の一歩を踏み出す。しかし望美は、共演相手の女優に嫉妬してしまうのだった。



郵便物を確認する間も惜しい。望美は、はやる気持ちを抑えながらエレベーターに駆け込むと、先ほど買ったシャンパンの紙袋を抱きしめる。

自宅フロアで降りるなり小走りで帰宅した部屋には、すでにヒデが来ているようだった。

「ただいま」

「おかえり、望美さん。今日も遅くまでお仕事お疲れ様。ご飯作っておいたよ」

食欲をそそる香りと愛らしいヒデの笑顔に、こわばった体の力がとろけるように消えていく。

望美は「ありがとう。こんなのも買って来たから、一緒に飲もう」と言いながら、シャンパンをヒデに向かって差し出した。

「わっ、結構いいシャンパンじゃん。何?望美さん、何かいいことあったの?」

「うん、ちょっとね。乾杯したら教えてあげる」

「なになに〜?超気になる。早速開けようよ、座って座って」

ソワソワとしながらヒデは、元バーテンらしく手慣れた様子でボトルの栓を抜く。

そして、ペアのフルートグラスにたっぷりとシャンパンを注ぎ、食卓に着いた望美の前に差し出した。

望美はグラスに手をかけて軽く持ち上げると、心が弾むのを抑えきれずに、微笑みを浮かべながらゆっくりと口を開く。

「実は…上司が産休に入るタイミングで、後任として昇進することが決まりました!」

それを聞いたヒデは、目を丸く見開きながら感嘆の声を上げる。

「おお〜、おめでとう!じゃあカンパー…」

だが、乾杯の声を上げようとするヒデを制止して、望美はなおも言葉を続けた。

「ちょっと待って…。それでね、昇進すると、お給料もかなり良くなるの。多分、額面で1,200万近くになるんじゃないかな。だからね…ヒデ」

「うん」

「結婚しよう?…私がまた、養ってあげる!」


望美からの突然の逆プロポーズ。ヒデの反応は…

ドキドキと、胸が高鳴る。

2年もの間、バイトも続かずあれだけ働くのを嫌がっていたヒデなのだ。ネコ扱いしていたことで傷つけてしまったため、今は懸命に役者として頑張っているものの、本当はのんびりと守られていたいに決まっている。

望美は、結婚式での鈴木の言葉を思い出す。

<結婚する理由は、この人を、ずっと私が守ってあげたいと思ったから。どんなに辛くても、彼と一緒にいれば幸せでいられるって思ったの…>

鈴木の言葉は今、望美の心と完全に一致していた。

無職のヒデは、人に自慢できるような相手ではないかもしれない。贅沢な暮らしも、子供も望めないかもしれない。

でも、それでも。ヒデさえそばにいてくれれば、幸せでいられる。

そのためには、野宮リオや芸能界などという危険から、ヒデをしっかりと守らなければならなかった。

―どこへも行かないで。私が、守ってあげるから。

これから先、順調に出世していけば、ヒデを養い続けることはそう難しくないだろう。

溢れ出てくる甘美な感情で、望美の胸が満たされる。

しかし…。

ときめきと母性で満ち溢れる望美に向けられたのは、予想もしない言葉だった。

ニコニコとした笑顔でグラスを掲げていたはずのヒデは、深くうつむき、うなだれながら、何かをボソボソと呟く。

「…にしろよ…」

うまく聞き取ることのできなかった望美は、ゆっくりと聞き返す。

「なあに?ヒデ」

その途端。ヒデは、歪んだ顔をこちらに向けて、かすれたような声を振り絞った。

「いい加減にしろよ。俺に…俺に、ヒモに戻れっていうのかよ!!」



あまりの衝撃に、望美はビクッと肩を震わせる。

―へえ、ヒデもこんな怖い声が出せるんだ。

凍りついた体の内側で、不思議とのんきにそんなことを考えている。

いつでも望美をとことん甘やかし続けてくれていたヒデが、初めてあらわにした怒り。それは、望美の思考がついていかないほどに衝撃的な現実だったのだ。

ヒデのグラスが無残に倒れ、その中身を惜しげも無くダイニングの床へと注ぎ続けている。テーブルの下にできた小さなシャンパンの小川が、望美のつま先にやっと触れると、その冷たさに望美はようやく意識を取り戻した。

「な、何怒ってるの…?私はただ、ヒデが働くのが嫌なんじゃないかって思って。ヒデのことが好きだから、守ってあげようとして…。“ヒモ”だなんて、私はそんな風に思ってないよ。

確かに独身だと、世間体は悪いかもしれないよね。でも、結婚すれば専業主夫だよ。いいじゃない、何も恥ずかしくない。すごく先進的だよ」

望美はその場を取り繕うように、しどろもどろになりながらも言葉を紡ぐ。

だが、それに対するヒデの言葉は、足元を濡らすシャンパンよりも冷たかった。

「また”先進的”か。ねえ、望美さん。俺は望美さんのことが好きだよ。でも望美さんは、本当に俺のことが好きなの?…俺はいつまで、犠牲になり続ければいい?」

「え…?どういう意味?」

ヒデの言っている意味が、分からない。足元の冷たい水たまりが、底なし沼のように心許なかった。

青い顔で戸惑う望美の前で、ヒデはしばらくの間押し黙る。

そして、絶望の色が滲んだ瞳でじっと望美を見つめたかと思うと、先ほどの怒号とは別人のような悲しげな声で、ささやくように言った。

「本当に…自覚がないの?」


問いかけの真意が分からない望美は、ヒデの本音に息を呑む…

返す言葉を持たない望美の前で、ヒデはため息をつく。

そして、ダイニングチェアの背もたれに頭を預けると、苦しげに話し始めた。

「望美さんはいつもそうだ。確かに、仕事もせず望美さんとの生活に甘えていたのは俺自身だよ。でも、俺が遠くに行こうとすると、邪魔をする。望美さんが俺を、ペットみたいに閉じ込めるんだ」

ヒデのその言葉に、望美の頭の芯が痺れたように熱くなる。

「なにそれ…。ヒデが今まで働かなかったのは、私のせいだっていうの?」

当てつけのように口をついた言葉だったが、ヒデはすかさず「そうだよ」と返事をする。

「望美さんが何か心に傷を抱えているのは分かってた。だから、望美さんを支えようと思って、なるべく期待に応えたかったんだ。

『朝、目覚める時はそばにいて』『帰るまでには家にいて』仕事に出かけようとすると『役者としての活動にとことん時間を使わなくていいの?』なんて釘をさす。それに…」

そこまで言った後ヒデは、悲しげな眼差しをまっすぐ望美に向けながら言葉を続けた。

「それに、一番辛かったのは…望美さんに『好きだ』って伝えるたびに、財布を出されたことだよ。『私は先進的な女だから、受け取って』って…。

ねえ、望美さん。望美さんを助けてあげられるのは、本当に俺なのかな?もしかしたら、俺以外の他のやつなんじゃないの…?」

ヒデの口から溢れ出る衝撃的な本音に、望美の頭は世界が回転しているかのように揺さぶられていた。

―違う、私は…。働きたくなさそうなヒデのことを助けてあげてただけで…。

ふと見ると、ヒデは傍らのソファに脱ぎ捨ててあった上質なジャケットを拾い上げ、袖を通している。さらに机の上には、見紛うはずもないこの部屋の合鍵が、置き去りにされていた。

身支度を整えるその背中にとてつもない焦りを感じた望美は、ヒデをつなぎとめるための言葉を必死で探す。

「…そんなこと、言ってくれなきゃ分からない。私、ヒデはこの家での生活を気に入ってるんだと思ってた」

だがヒデは、そんな望美の言葉に一度も振り返ることなく、玄関のドアを開く。

「本当に俺のことが好きなら、どうして自分の力で動き出そうとしてるのに、背中を押してくれない?望美さんの言ってること…時々、全く分からないよ」

そう言い終わると同時にヒデは、ためらいがちに一歩を踏み出す。

ヒデの筋張った大きな手が離れると、ドアは重みに任せてゆっくりと閉じていく。

そして、終幕を告げる合図のように…

バタン!と大きな音を立てて、望美を部屋に閉じ込めた。



すっかり冷めてしまった料理の前で、望美はしばらくの間、自身のつま先をじっと見つめていた。

どれくらいの時間が経ったのか分からない。しかし、しばらくの間そうしていた望美は、おもむろに頬杖をつくと自嘲気味な笑みをこぼす。

―私、最後になんて言った?「私、ヒデはこの家での生活を気に入ってるんだと思ってた」?

そして、頭を抱えながら、クスクスと忍び笑いを始める。

―嘘でしょ?私…。こんなセリフ、まるで上岡さんじゃない。

孤独な部屋には、望美の思考を邪魔するものは誰もいない。張りつめるような静寂の中で、望美は痛いほどに自身の過去を見つめ直す。

ヒデの成功を妨げていたのは、自分だった。

ヒデは、望んでヒモ生活を送っていた訳ではなかった。

ふと、遠い昔上岡に吐かれた、呪いのような言葉が脳裏によぎる。

<望美はもっと、先進的な考えの女性かと思ってた…。愛情は物理的なもので結びつけられるわけじゃないんだ…>

そして、次の瞬間。望美は、ハッキリと理解した。

その呪いを打ち破ることに、囚われ続けていたことを。

ヒモを飼う。その行為で、愛情を結びつけようとしていたことを―。


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ついに望美を見捨てたかのように見えるヒデ。上岡の影に悩まされる望美が出した、答えとは