IT社長として成功した柳川 貴也(やながわ たかや)の妻・美香。

共に貧しい時代を乗り越えたこともあり、今でも貴也の一番の理解者である妻。

彼女の支えがあったから成功出来たと言っても、過言ではない。

成功者の夫と、それを支えた妻。絵に描いたような夫婦に隠されていた、妻の秘密とは?

◆これまでのあらすじ

激怒した貴也は財前に詰め寄るが、財前の口から語られたのは美香がもともと離婚していたがっていたという事実だった。未練を感じながらも、貴也は美香に別れを告げるが…。



2019年 9月


窓を開けると、ふわりと風が入り込んでくる。

部屋の空気は決して淀んでいるようには感じなかったのに、外から流れこんできた風は、胸いっぱいに吸い込みたくなるほど爽やかに感じられた。

-最近、窓も開けてなかったな。

そんなことを考えながら、貴也は自分の部屋の窓をすべて開け放った。

バルコニーに出てみると、眼下には普段通りの街並みが広がっている。その光景は、これから大きな変化を迎えようとしている自分の家とは対照的で、心の隅に寂しさを感じた。

「ちょっと。なに黄昏てるのよ」

美香がひょいと顔を出して、からかうように言う。

それに応えようとしたが、彼女はすぐに部屋の中に戻って行ってしまった。自分にかまっている暇はないらしい。

今日は、美香の引っ越しの日だ。

「手伝おうか?」と聞く前に、気遣いは不要だと告げられた。

「この部屋、空気が悪いわ」

そう言って美香は、帰ってくるなり家中の窓を開け放った。貴也もそれに倣ってみたのだ。

手伝うこともなく、貴也は暇を持て余していた。椅子に座って何をするでもなく、天井を眺めたりしてやり過ごす。すると、リビングの方から美香の声が響いた。

「ねえ、貴也。ちょっと手伝ってくれない?」

「結局手伝わせるのかよ」

苦笑いする貴也に、美香も「ごめん…」と笑った。


そしてついに、別れの瞬間が訪れる…。

やりたかったこと


「ここの片付けをお願いしたいの。箱は潰してもらって…。あ、紙袋は適当に縛っておいて」

リビングルームには、どこにこれだけの量がしまってあったのかと思うほどの紙袋と箱が積み上がっている。

そのほとんどはブランドものらしく、中には貴也が見聞きしたことがないものも多かった。

「じゃ、お願いね」

洗面所に向かった美香は、化粧水のボトルなどを次々に段ボールに放り込んでいく。

そのうちに鼻歌が聞こえてきた。

美香が学生の時から好きだった曲だ。ところどころ音程がずれるのも変わっていない。

-あっ、これ…。

美香の鼻歌を聞きながら作業していたが、貴也は、ある箱を見てその手を止めた。彼女の行動に疑いを持つきっかけになった、下着の箱だ。

−この箱を発見していなければ…。

思わず手を止め、箱を眺めてぼーっとしていると、背後から声をかけられる。

「ちょっと、大丈夫?」

「あ、ごめん」

ハッと我に返り、急いでその箱を潰して、すでに平積みになっている段ボールの間にそれを差し込んだ。



「そういえば、これからどうするんだ?」

貴也は、その場を誤魔化すように美香に質問を投げかけた。

「んー、キュレーターかなぁ。一応学芸員の資格あるしね。最終的には自分の画廊を持って個展とかプロデュース出来たらいいなって。

ずっと前からの夢だったし、挑戦してみようと思うの」

美香にこんな夢があったなんて全く知らなかった。貴也は、驚くと同時に自分の想像力の至らなさを恥じた。

自分のことを献身的に応援してくれていた妻。いつのまにか、彼女自身にはやりたいことなどないと勝手に思い込んでいた。

しかし、よくよく考えてみればそんなはずはない。誰にでも夢はあるのではないだろうか。

貴也自身にだって、収入の心配がなければやりたいことはあった。それは、絵を描くこと。

引退後は、大自然に囲まれた土地で絵を描きながら自由に暮らしたいと、学生時代は美香とそんな話をして盛り上がったこともある。

「あなたを画家として世に知らしめてあげるわ」とか、彼女はそんなようなことを言っていたのだ。

起業してからというもの多忙で、夢などすっかり忘れてしまっていたが。

-美香の夢が叶うなら、稼いだ金も無駄じゃなかったってことだな。

財前に真実を告げられ諦めがついたのか、貴也は自然とそう思えるようになっていた。

そして今、目の前で生き生きと夢を語る美香を見て、自分の選択は正しかったのだと確信を深めた。

美香を選んだこと。

就職をせずに起業したこと。

経営者として生きると決めたこと。

そして、美香と別れることも。



ようやく準備が終わった時には、日が暮れかけていた。大量の紙袋や箱の量の割には、美香自身の荷物の量は少なかった。

「じゃあ、行くね」

「ああ」

別れの瞬間は、あまりにも呆気なかった。

貴也は、美香を見送った後もすぐには動くことが出来ず、玄関先で立ち尽くしていた。


ついに家を出た美香のもとに、あの男から連絡が…。

振り返るとそこには


後ろ髪を引かれるとは、このことなのだろうと美香は思った。

自分で出ていくことを決めたはずなのに、何度も振り返っては、さっきまで住んでいたマンションがまだ視界にあることを確認する。

何が気になっているのか、自分でもよくわからない。

荷物はすべて運び出した。忘れ物がないか、何度もチェックした。自分の部屋だけではなく、洗面所、キッチン、ゲストルームも、全部だ。

-ただの執着よ。すぐに忘れるわ。

自分に言い聞かせるように、頭の中で繰り返す。

それでもやっぱり気になる。もう一度振り返ろうとしたとき、美香は自分のスマホが振動していることに気づいた。

-もしかして…貴也から?

しかし、それは貴也からではない。財前からの着信だった。

-なんだ…。

正直、貴也からではないかと期待してしまった。家を出て行った自分を引き止めるため、電話をしてきたのかもしれないと咄嗟に考えたのだ。

ここのところ、財前はめっきり連絡をよこさなくなっていたから、こうして電話がくるのは久々である。今日が家を出る日だとLINEで伝えたはずだが、既読になったまま返信はきていなかったのだ。

もしかしたら、美香の新たな門出を祝うため、今日という日にあわせて連絡をしてきたのかもしれない。

そう思って通話ボタンを押したが、電話越しに聞こえた財前の第一声は、予想もしないものだった。

「本当に離婚するんですね。アホくさ」

−なに、この言葉遣い…?

財前は、挑発的な態度で続けた。

「柳川貴也の妻だったからこそ、皆あなたに寄ってきたし、チヤホヤしたんです。離婚したら、あなたになんか、だーれも興味はありませんよ」

これまでの優しくサポートしてくれた彼とは全く様子が違う。財前の豹変ぶりに、美香は戸惑いを隠せない。

「ねえ、何言ってるの?」

「あなたたち夫婦の絆はもっと強固なものだと思っていた。悔しいから試してやったんですよ。でも、意外と弱くてすぐ切れた。

柳川先輩は、僕があなたをたぶらかしてるって思って殴りかかってきたくらいだから、美香さんのことを必死で信じてたんでしょうけど、あなたは簡単に…。アホくさ」

吐き捨てるように言った財前は、一方的に電話を切った。

美香はスマホを握りしめたまま、呆然としていた。



『旦那さんのこと、憎いでしょ』

あの時、財前に言われたことは事実だった。

美香自身も思い当たる部分があったから、離婚には有利になるという彼の助言に従い、あの忌まわしい日記のような、でっちあげの文章も作った。

しかし、よく考えてみると常に憎いと思っていたわけでもない。当然、貴也への感謝の気持ちだってあったはずだ。

美香は震える指で、財前とのトーク履歴を開く。

“美香さんには、人を惹きつける魅力がある”

“あなたは自分の才能に気づいていない。僕は、あなたに可能性を感じる。羽ばたけるはずだ”

画面をスクロールしながら、頭の中が次第に冷静になっていく。

改めて眺めてみると、そこにはいかにも白々しい褒め言葉が並んでいる。しかも、まんざらでもない返事をしていた自分に強烈な恥ずかしさを感じた。

もともと、パーティに参加していたのは貴也のためだった。

社交的ではない夫のために、人脈作りに励んでいたのだ。徐々に自分の欲が出てきてしまい、自分のための人脈作りなどをしていたことは否定出来ないが。

その時美香はハッとした。財前がパタリと連絡をしてこなくなった日付は、奇しくも貴也が“離婚しよう”と電話を掛けてきた日と一致している。

−わ、私…。とんでもないことをしちゃったんじゃない…。

美香は、カタカタと震えるのを抑えられず、頭を抱えてその場にしゃがみ込む。

はじめから財前は、貴也を陥れることだけが目的だったのだ。自分は、財前に良いように弄ばれただけだった。自身のコンプレックスや弱さに付け込まれ、まんまと彼の口車に乗せられてしまった。

「うそ、うそでしょ」

目の前の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。そして、さっき財前が言っていたことが頭から離れなかった。

『柳川先輩は、美香さんのことを必死で信じてたんでしょうけど』


貴也が最後にした思いがけない行動に、美香が下した決断とは…?

未熟なふたり


それからもしばらく、震えが止まらなかった。しかし、美香は必死で自分に言い聞かせる。

-決めたことなんだから、これでいいのよ…。今さら後悔したところで、どうにもならないわ。

自ら離婚を切り出し、さんざん悪態をついて、財産の要求までした。あれだけ大見得を切って、家を出てきたのだ。もう後戻りできるはずがない。

貴也から預かった離婚届を提出すれば、自分は貴也の妻ではなくなる。そう決めた今、やるべきことは一つしかないだろう。

-まさか…。忘れたりしてないよね。

慌ててトートバッグの中を覗いた。クリアファイルを取り出し、離婚届が収められていることを確認する。

その時、はらりとクリーム色の何かが落ちた。

−ん…?これは一体?

それは小さな封筒だった。 自分で入れた覚えはないが、まさか貴也が入れたのだろうか。

封筒の中には、メッセージカードが入っていた。最後の手紙には似つかわしくないような市販の安っぽいカードだが、それが貴也らしい。

彼は、こういうことに本当に無頓着だ。だからこそ美香が頑張ってパーティに参加し、さりげなく取引先の好みを聞き出して、菓子折りを毎度持たせたり、お礼状を書いていたくらいなのだ。

そんな懐かしい出来事を思い返しながら、メッセージカードに目を通す。

“美香へ

これまでありがとう。たくさん迷惑かけたけど、本当によくやってくれた。感謝の気持ちでいっぱいです。美香がいてくれたからここまで頑張れた。”

「貴也…」

美香の目から、一筋の涙が流れ落ちる。 そして、学生時代から彼と過ごしてきた日々の記憶が蘇った。

貴也が起業したときや、アプリが大ヒットしたときのこと、そして結婚した日のことを思い出す。

そのたびにいつも彼は、このメッセージカードと同じようにこう言ってくれた。

『美香がいてくれたから、ここまで頑張れた』

自分は一体、何をしていたのだろう。

結婚生活に不満があったのは事実だ。貴也の成功によって、もっと贅沢をして華やかな暮らしを送りたいという欲を抑えられなかったのも真実だ。

だが、コンプレックスに苦しんでばかりで卑屈だった自分に自信を与えてくれたのは、紛れもなく貴也だった。

彼が自信を与えてくれたおかげで、自分には無理だと諦めていた世界に足を踏み入れ、社交的でアクティブな性格になれたのだ。

夫がくれた、最も大切なもの。それはお金や名誉ではない。

自分への自信だったのだ。

離婚後はそれなりの金額をもらうことになっているから、今後、自分はやりたいように自由に生きていけるはず。

でも、隣に貴也はいない。

そう思うと、急に胸を締め付けられるような感覚に襲われ、涙が止まらなくなった。

-ねえ、本当にこれでいいの…?

その瞬間、美香は走り出していた。踵を返し、夫のいるマンションに向かって。



−やっぱり、貴也ともう一度話がしたい。

散々迷惑をかけ、離婚を言い出したのも自分だと分かっている。だけど、とにかく一刻も早く戻らなくてはと思ったのだ。

美香は、重たいスーツケースを引きながら無我夢中で走った。

マンションのエントランスでインターフォンを鳴らすと、貴也は驚いた声だったが、すぐにドアを開けてくれた。

「なに、忘れ物でもした?」

玄関先で息を切らしている美香を見て、貴也は目を丸くしている。

美香は、声を震わせて切り出した。

「本当にごめんなさい。私…」

きちんと話そうと思っているのに、涙で言葉に詰まってしまう。

数分の沈黙があった後、貴也がゆっくりと口を開いた。

「今回の件で、僕も深く傷ついた。今さら蒸し返したくない話もある」

蒸し返したくない話というのは、きっと財前のことなのだろう。美香は何も言えずに俯いた。

「ここまできてしまった以上、なかったことにはできないし、やり直すのは簡単ではないと思う。

でも、一度腹を割って話さないか。これまで、僕たちは一度もまともに話し合っていないだろ?ちゃんと…美香の話が聞きたいんだ」

「うん…」

そう言った貴也の表情は、驚くほど硬い。それを見つめながら、美香はぼんやりと考える。

一度壊してしまった信頼と絆を取り戻すには、一体どれくらいの時間と労力が必要だろうか。

それはもしかしたら、これまで二人が共に歩んできた道のりよりも、ずっとずっと険しいものなのかもしれない。

美香は覚悟を決めると、涙を拭き、夫の顔をまっすぐに見つめた。

Fin.