今年、私たちの生活は大きく変わった。

“ニューノーマル”な、価値観や行動様式が求められ、在宅勤務が一気に加速した。

夫婦で在宅勤務を経験した人も多いだろう。

メガバンクに勤務する千夏(31歳)もその一人。最初は大好きな夫・雅人との在宅勤務を喜んでいたのだが、次第にその思いは薄れ、いつしか夫婦はすれ違いはじめ…?

2020年、夫婦の在り方を、再考せよ。



「明日から全員、原則在宅勤務とします」

グループミーティングに参加していた千夏は、突如、息を切らしながら現れた部長の言葉に耳を疑った。

会議室が静まり返る。だが、1分もしないうちにざわつき始めた。

「急に言われても…」

皆、戸惑いを隠せない様子で、不安そうに顔を見合わせている。

すると部長は、ザワザワした空気を鎮めるように、こう付け加えた。

「外部から社内システムに接続出来るので安心してください。詳しくは、技術部門から連絡がいきますので」

早口に言い終えた部長は、他のグループに説明するからと、会議室を勢いよく飛び出して行った。



ミーティング後。

千夏が、夫・雅人に、“明日から在宅勤務になった”と、LINEで報告すると、珍しくすぐに返信があった。

“俺も”

どうやら彼も在宅勤務になったらしい。雅人の返信に、千夏の頰が緩む。

−久しぶりに夫婦2人の時間が増えて良いかも。ちょっと嬉しい!

大好きな夫と過ごす時間が増えることに心躍らせていたのだ。

これが嵐の前の静けさだなんて、露ほども知らずに。


銀座在住、世帯年収2,200万の南方夫妻。華麗なる彼らの東京ライフとは…?

東京を謳歌するダブルインカム夫婦


南方千夏(みなかた ちか)、31歳。

メガバンクの総合職で、現在は、大手町にある本社の企画部に所属している。

夫・雅人とは、大学時代に入っていたテニスサークルの先輩と後輩の間柄で、OB会で再会したのをきっかけに交際を始め、2年前に結婚した。

実は千夏は、学生時代から隆に想いを寄せており、晴れて片思いが実った形。

雅人は、俳優顔負けのルックス、頭脳明晰で運動神経抜群。

容姿、能力ともに、”可もなく不可もなく”という表現がぴったりの千夏にとっては、雅人は憧れの人だった。そんな彼から、「学生時代から思っていたけど、千夏って本当に気が利くし、献身的にサポートしてくれるよな」と、告白された時には、天にも昇る心地を味わった。

同時に、雅人のことは誰にも渡さないと、心に誓った。付き合い始めてからは、激務な雅人ために家事をサポートし、デートも彼の予定を第一に優先してきた。

結婚後も、外資コンサルで働いている雅人は超多忙な毎日を送っており、夫婦でゆっくり話せるのは、休日くらいだ。

もっとも千夏も千夏で、平日夜は、だいたい、週に2回は残業、そのほかはジムや勉強、友人と食事に出かけたりと忙しい。

住まいは、銀座。オフィスビルの間にひっそりと立つマンションで、部屋は1LDKだ。

少し狭いが、平日ほとんど家にいない2人にとっては大きな問題ではない。

休日、デパートで買い物、おしゃれなレストランで食事やお茶をする、そんな贅沢なライフスタイルを満喫出来る方が大事なのだ。

世帯年収は2,200万。

「南方さんの生活、羨ましい」

周囲の人にもよく言われるのだが、自分でもそう思う。この東京を謳歌する、自他共に認める恵まれた夫婦なのだろう。



仕事を終えた千夏は、急いで銀座のデパートへと向かい、デパ地下で夕食を調達する。帰り際、焼きたてパンの香りに釣られ、買うつもりのなかった高級食パンやスコーンなども買ってしまった。

−さてと。

一度家に帰って荷物を置いた後、今度はスーパーへと向かう。明日からの在宅勤務に備えて、食材を調達しなければならないのだ。

多忙な雅人は、平日家で食事を取ることはほとんどない。

一方の千夏も、友人と外で食事したり、適当に買って来て済ませることが多いため、南方家の冷蔵庫は、空っぽなのだ。

色々買い込まなければ。あれこれ考えながらスーパーに入った千夏の目に飛び込んで来たのは驚愕の光景だった。

「うそでしょ…」

商品が全然ない。パンやカップラーメン、水などは全て売り切れている。

千夏は目についたもの全てをとりあえず買い物かごに突っ込んで行く。

結局買えたのは、日持ちのしない生麺や野菜、少し高めのウィンナーやハムだったが、何も買えないよりはだいぶマシだ。

さっきデパートでパンを買っておいて正解だったと、ホッとした。

−重すぎる…。

無事に会計を済ませた千夏は、歩き出したのだが、すぐに立ち止まった。

ぎゅうぎゅうに詰めたビニール袋を3つ。腕がちぎれそうなほど痛い。

あまりの重さに耐えきれず、タクシーを拾おうと、手をあげる。だが、15分待っても“空車”表示のタクシーは現れなかった。

−はあ、最悪…。

ついに諦めた千夏は、ノロノロと歩き始めた。

自宅までは、400m。普段なら10分もかからない距離なのに、今日ばかりは、遥かかなた、遠くのように思えた。

何かおかしい。

この時千夏は、世界の異変を肌で感じ取った。


世界の異変を感じ取った千夏。異変は、夫婦関係にも起きているようで…?

疲労困憊


「おはよう」

翌朝、7時。千夏が洗面台に向かうと、すでに夫・雅人がリビングで作業をしていた。

「もうお仕事なんて大変だね、すぐに朝ごはん作るね」

顔を洗い、歯を磨いた千夏は、早速朝食作りに取り掛かった。並行して、溜まっていた洗濯物を処理するため、洗濯機を回す。

食パンをトーストし、ウィンナーを焼いて簡単なサラダを添えるだけ。それでも、準備には15分程度かかる。

「出来たよ!どうぞ〜」

千夏は、仕事中の雅人の邪魔をしないように、テーブルの隅っこに持って行った。

「ありがとう」

そう言った雅人は、千夏を待つことなく、猛スピードで食べ始め、5分もしないうちに「ごちそうさま」と、フォークを置いた。

「コーヒー、淹れてもらっても良い?」

−え!?私、まだ食べてないんだけど…。

食べ終わったお皿を下げることすらしない雅人に内心ムッとしたが、こんなことで朝から喧嘩したくはない。

千夏は「了解!」と無理やり明るく答えて、コーヒーメーカーのセッティングをする。

朝食のお皿洗いを終え、ようやく化粧でもしようとポーチを出した矢先、今度は洗濯終了の合図を知らせる音が鳴った。

「はああああ」

思わず、大きなため息が漏れてしまう。

普段作らない朝食も面倒だし、雅人がいるので日課のルンバもかけられない。

いつもとは違うペースに、ストレスを感じる。千夏は仕方なく、洗濯物を干しにお風呂場へと向かった。

浴室乾燥のスイッチを入れ、一通りの家事が終わった時には、時刻は8時10分を回っていた。

「うっそ、もうこんな時間なの!?早く準備しなくちゃ…」

会社の始業は、8時半。結局、化粧する暇もなく、すっぴんのまま、急いで仕事の準備に取り掛かる。

PCを手に、千夏の脳裏にひとつの疑問が過ぎった。

−私、どこに座ったら…?

1LDKのこの家は、リビング兼ダイニングの1部屋と寝室しかない。テーブルに関して言えば、雅人が座っているダイニングテーブル、1台しかないのだ。

「失礼します」

すでに置かれていた雅人の書類を少しだけずらして、千夏は自分の仕事場所を確保した。



「え、もうこんな時間…」

ふと部屋の時計に目をやると、時刻は11:58と表示されているではないか。午前中、結局PCの設定や会社システムへの接続がうまくいかず、メールの処理もろくに出来ないまま終わってしまった。

とはいえ、あと2分で昼休み。昼ご飯作りに取り掛からなければならない。

本当は雅人に任せたいところだが、彼は料理が全く出来ないから難しいだろう。

12時になったと同時に、千夏は料理に取り掛かる。冷蔵庫にある具材で、ペペロンチーノを作ることに。

「お昼ご飯、出来たよ」

20分後、千夏が声をかけると、雅人は「ありがとう」と、PCを一度閉じた。

だが、しかし。朝食同様、超高速スピードでパスタを平らげ、5分後には「ごちそうさま」と、再びPCに向かい始めたのだ。

−昼休みくらい、休憩したって良いじゃない。

千夏は、雅人の超仕事モードに文句の1つでも言ってやりたい気分だった。

彼が超仕事人間であることは百も承知だが、せっかく2人の時間が増えたのだ。もう少し会話したりしても良いではないか。

そんな不満を押し殺しながらパスタを食べ終え、食器を洗い、午後イチのコーヒーを淹れた頃には、時刻は12時40分を回っていた。

少し休みたくてソファでゴロゴロしてみるが、雅人のキーボードを叩く音が不快なほど耳に響く。だが、寝室に移動して休むには時間が短すぎる。

仕方なくダイニングテーブルに戻った千夏は午後の業務を開始した。だが、午後も午後で、やりたいことの半分も出来ないまま終業の時間を迎えた。

−明日はちょっと早く起きてやらないとだな。

今日の反省をしてみるが、ぼーっとしている暇はない。夕食の準備に取り掛からなければならないのだ。

加えて、お風呂の掃除や乾いた洗濯物を畳む。「ふぅぅぅぅぅ、疲れたぁ」1日の在宅勤務で、どっと疲れた。

−在宅勤務初日。クタクタだ。この生活、いつまで続くんだろう…?

そんな疑問が、千夏の胸に不吉に浮かび上がった。

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