今年も、夏がやってきた。

青い空、燦々と降り注ぐ太陽。そしてバケーションへの期待。夏はいつだって、人々の心を開放的にさせるのだ。

そんな季節だからこそ、あなたは“夏の恋”を経験したことはないだろうかー?

東京カレンダーのライター陣が1話読み切りでお届けする、サマー・ラブストーリー。

先週紹介したのは、もう二度と取り戻せない恋を悔やむ男の物語。さて、今週は…。



「なんか、花火大会がない夏って寂しいよな」

平日の朝8時。

在宅勤務に切り替わり、夫と2人で食卓につくことが普通になった日々の中で、季節はようやく初夏を迎えようとしていた。

朝のTVから、全国の花火大会が続々と中止になったことで、その代わりとして予告なしの花火が打ち上げられたとのニュースが流れている。

「…もう30だから、花火ではしゃぐ歳でもないけどね」

そう言いつつ、私は、ふいに5年前の夏の記憶を思い起こしていた。

夫の賢一に出会う前、腰かけOLだった私が足を踏み入れようとしかけた恋。

あのとき、私は人生で初めて花火大会の中止を願った。

どうか、“彼”に会いに行くべきか決断を迫らないでほしい―。大雨でも降って、私が決断をせずとも、すべて流れてしまえばいいのに。


「…紗季?ぼんやりして、どうした?」

夫の声にはっと我に返り、慌てて笑顔を浮かべる。

「来年は…3人で見られるといいな」

私のお腹の中には、妊娠7ヵ月目の命が宿っている。

最近は活発に動き始めた小さな命の将来に想いを馳せるばかりで、私自身のこと、特に恋愛についてなど、考え込む時間は全くなかった。

だから、“花火大会”その単語ひとつで、今さらあの夏を思い出すことが不思議で仕方がない。

私は、交際人数としてカウントすることもなく、今後時効がきたとしてもわざわざ夫に話すこともないであろう人のことをそっと思い出していた。


夫に出会う前、紗季が足を踏み入れようとしていた恋とは…

5年前、25歳の私は、若さと恵まれた容姿で付き合う相手に困ることはなかった。常に、選ばれるのではなく選ぶ立場。

ーあれもこれも違う。

男性をそうやってジャッジし、腰かけOLをいずれは卒業してセレブ妻になることを疑わなかった。

けれど結婚はまだ、先輩世代が主役の話。

そのはずだったのに、その初夏、同期の中で一番冴えなかった雅子が、急に結婚を発表した。

雅子は毎曜日同じ服で出社する子で、例えば黒のスカートは金曜日と決まっていて、同期たちは陰でそのことを馬鹿にするかのように、たまに話のネタにした。

次々と出る新作のバッグや服に身を包むことが最大の幸福だった私は、毎月の資金繰りは往々にして苦しくなる。

―そのうち、稼いでくれる相手が見つかれば問題ないか。

雅子の相手が名家の出だと知ったとき、今まで馬鹿にしてきた手前、誰も羨ましいと口にはしなかったけれど、同期たちの態度にはどうしたって本音が滲んでいた。

雅子の結婚は、悠長に構えていた私を焦らせ、今動かなければ手遅れになるぞという恐怖で煽る。

武器が少ないことは理解していた。若さも美しさも、不変ではない。私が勝負時に頼れるのは、いずれ失うものばかりだ。

―25歳という今を最大限利用しなくては。

そう考えた私は、その夏、密かに高収入の男性が集まるという婚活パーティーに顔を出すようになった。



相手はすぐに見つかった。

秦 吾郎、40歳。外資系の監査法人勤務で、年収は私と桁がひとつ違う。プロフィールカードには身長をミリ単位まで記載していて、私はいつか話のネタにしてやろうと一人で笑った。

秦は私をひと目で気に入ったらしく、その後二人で会うようになった。

初めて食事をした日、私が勤務先の社名を明かすと、彼は目を丸くして驚いていた。偶然にも取引先だったらしい。そしてこれは何かの縁に違いない、と嬉しそうにこぼした。

そのときはまだ、彼は私の手中にあったはずだ。けれど頻繁に会うようになって、秦は私に経験したことのない特別感を味わわせてくれたのだ。

ホテルのラウンジでのお茶に始まり、会員制のバー、煌びやかなレストラン。

15歳も年上の男が何を考えているのかなんて全く分からなくて、私は内心、次があるのか毎回不安になった。

―今日は合格点に達しているだろうか?

別れ際には、いつもそんなことを思う。その夏私は、煌びやかな時間というのは、手に入れる喜びよりも失う怖さが圧倒的に勝ることを学んだ。

5回目のデートの帰り道、私達は銀座を歩いていた。夏を迎えた東京に、夜風がかすかな涼をもたらす。

―この人は、誰かに向けて、好きとか付き合ってとか言うのだろうか?

そう考えた矢先、照明が落とされたブティックのショーウィンドウに私達が映る。

想像以上に不似合いで、2人でいるのを誰にも見られたくないと思った。

毎シーズン、物欲を最大限まで増幅させるブランドショップの前に差し掛かり、ドアボーイの目もなく私はピンクのハンドバッグを存分に見つめた。



隣から、ふふっと笑う声が漏れ聞こえる。

「あれが欲しいの?」

秦に尋ねられ、私は恥ずかしさでいっぱいになる。

「…友だちが持っていたのと似ているなって」

「そう」

見え透いた嘘をついても、秦は逃げられないよう畳みかけることはしない。妙に紳士で、逆に闇を感じさせた。

その次のデートで、秦はそのハンドバッグを持って現れた。

私はまだ、この人を何も知らない気がする―。その事実が頭をかすめながらも、喜んで受け取ることしかできない。

週1回会う私達。季節は依然夏のままで、関係も進展しない。かといって、進展させたいのかも分からない。

22時、表参道のみゆき通りを2人で歩く。もらったブランドバッグの紙袋を握る手が汗ばんでいた。

ふいに何かが、そっと私の背中に触れる。秦が、肩を抱き寄せようと手を伸ばしていた。その瞬間、私は反射的に歩幅を大きくして、彼の手が背中に届かないようにした。

半歩置き去りにした秦を振り返ると、手はもう伸びていなかった。

「次は、花火大会に行こう。…花火の見える部屋をとっておくよ」

別れ際にそう言った秦に、私はぎこちなく手を振り、駅の階段をいつもより早足で下った。


「このままでは、もう二度と引き返せなくなる」。変わってしまう自分が怖くなって、女が取った行動とは…。

花火大会当日、始まりの数時間前に、私は携帯の電源を切った。

最後に見たメッセージには、待ち合わせ時間ととあるホテルのロビーの場所が示されている。

―大雨でも降って、中止にならないだろうか。

そう祈る自分に気づいたとき、私は分岐点にいることを改めて意識した。今日会いに行けば、もう戻ってくることはできないだろう。元の自分が心底恋しくなっていた。

私は自宅から一歩も出ないことに決め、早く翌朝になるのを祈りながら目を閉じた。

翌日、恐る恐る携帯の電源を入れる。秦は1通も連絡を寄越していなかった。

すぐさま連絡先を消去すると、なかなか進まないと思っていた季節はあっという間に秋へと移った。



夏が終わり、ベンチャー企業だった私の会社は、上場へと向けて何度目かの再チャレンジをすることとなった。

「今日は監査の人が来るから、卓上放置などにはいつも以上に気を付けるように」

上司の指示で、皆が身の回りを片付け始める。

“そういえば僕、君の会社の資料を見たことがあるよ―”

秦が監査法人に勤めていたことを、はっと思い出す。

あのピンクのハンドバッグが目に入った。秦がもし担当者として現れたら―?私は不安になり、ワゴンにバッグを押しやる。

「バッグは大丈夫でしょ」

隣の席の先輩が笑ったけれど、私はしっかりワゴンに鍵をかけた。

結局秦は現れなかったし、上場を果たすこともなく私は26歳になった。平日の退屈さを忘れさせてくれる特別な週末は、もうやってこない。

恋しかったはずの平穏な日常は、取り戻してみるとやはり物足りなかった。でも、あの夏の決断を後悔したくはなかった。

翌夏、友人の紹介で出会った、大手企業にエンジニアとして勤める賢一と付き合いはじめ、1年ちょっとでトントン拍子に結婚へと進んだ。

プロポーズは、『レストラン タテル ヨシノ 銀座』で。秦に連れて行ってもらったことのある店だったけれど、初めて行ったフリをした。



秦ほどの稼ぎはないが、大手企業勤務なので、私はパート勤務くらいの働き方でも十分やっていける。何より、2人でいて違和感がないことに安心を感じた。

身の丈にあった幸せ。ここがちょうどいい終着点だろう。

しかし賢一は、結婚後1ヵ月でベンチャー企業への転職を決めてしまった。

結婚後にお金で苦労したくない、と言っていた婚活中の友人が、紗季はちょうどいい人を見つけたねと羨ましさを滲ませる。夫の転職のことは言い出せず、曖昧に私は笑った。

そして、27歳にしてようやく自分も仕事と向き合うことを決めた。もう若さと美貌では戦えない。分岐点にいる、というあのときの感覚を仕事面でも感じ始めたのだ。



30歳になった今、賢一の会社は大手外資系企業に買収され、年収は倍以上になった。

私も、本腰を入れて仕事をしてみると不思議とおもしろくなるもので、気がつくと次期課長候補と言われている。

ふと部屋の片隅に目をやる。そこには、年明けに買ったセリーヌのバッグが、この状況下で使われる機会を失い新品同様の状態で佇んでいた。

もちろん、そのバッグは自分で稼いだお金で買った。秦からもらったピンクのバッグは、賢一と付き合う前、捨てるか売るか迷って、捨てた。

すべてがなくなると、あの夏は幻のように思える。

「あっ…」

過去を振り返っていた私は、不意にお腹に手をあてる。お腹の子が、“そんなことより私に注目して”と言わんばかりに、強く蹴ったのだ。

この娘は、どんな恋をするのだろう。家族の花火大会も、いずれは恋人との思い出に変わるのかもしれない。

未来に何が待っているかなんて、これからもきっと分からない。

だからこそ―。その時々の自分を信じて逞しく進むしかないことを、この娘にも伝えようと、そんなことを思った。


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ある夏、突然夫に捨てられた妻