今年、私たちの生活は大きく変わった。

“ニューノーマル”な、価値観や行動様式が求められ、在宅勤務が一気に加速した。

夫婦で在宅勤務を経験した人も多いだろう。

メガバンクに勤務する千夏(31歳)もその一人。最初は大好きな夫・雅人との在宅勤務を喜んでいたのだが、次第にその思いは薄れ、いつしか夫婦はすれ違いはじめ…?

2020年、夫婦の在り方を、再考せよ。

◆これまでのあらすじ

会社から在宅勤務を命じられた千夏。夫・雅人とともに在宅勤務を始めるが、様々な試練が彼女を襲う。



−だめだ、集中出来ない…。

千夏は、バッグの中からイヤフォンを取り出した。通常の設定よりもボリュームを上げて、お気に入りの音楽を再生する。

普段、仕事中に音楽を聴くことはないし、むしろ静かな環境の方が集中出来るのだが、今日ばかりは音楽でも聴いていないと気が狂いそうだった。

テーブルの向かいで、雅人がウェブ会議をしているのだ。早口でカタカナ用語を連発する彼の喋り方はかなり耳障りで、千夏の神経を刺激する。

−気にしない、気にしない。

そう自分に言い聞かせながらパソコンに向かうが、気にしないと思えば思うほど、ますます気になってしまう。

どこか良い逃げ場はないだろうか。そんなことを考えていた千夏の脳裏に、ある場所が過ぎった。

−ラウンジにでも行こうかな。

千夏たちの住むマンションには、住人なら誰でも利用出来るラウンジがある。あそこならwifiも飛んでいるし、皆、静かに作業しているから、仕事には最適な環境だ。

ノートパソコンを畳んだ千夏は、ラウンジへと急ぐ。

−ようやくシェルターが見つかったわ。

そう安堵した千夏の目の前に飛び込んできたのは、ドアに貼られた“一時利用停止”の、赤い文字だった。


部屋に戻ることを余儀なくされた千夏。さらなる悲劇が襲う…?

寝室で仕事


「どこに行ってたの?」

行き場を失った千夏が仕方なく部屋に戻ると、テレビ会議を終えたらしい雅人が話しかけてきた。

「ラウンジで仕事しようと思ったんだけど、閉鎖されてた」

残念そうに報告すると、雅人が、「そっか」と軽く頷きながら、恐ろしいことを口にした。

「今日の午後もテレビ会議が2つ入っているんだけど。まあ、気にしないで」

−テレビ会議2つ…!?“気にしないで”って、あなたのセリフじゃないし。

千夏のこめかみがピクッと動く。再び、自分の仕事に支障が出るのは間違いないだろう。

どうにか仕事に集中出来る場所を確保しなくてはいけない。そう思った千夏は、室内をぐるりと見回す。

この狭い家で、リビングが使えないとなると、残る部屋はベッドルームのみだ。しかし。6畳のベッドルームには、ダブルベッドと小さなドレッサーが置かれていて、仕事が出来るスペースなど、ないに等しい。

それでもリビングでテレビ会議の騒音被害に遭うよりはマシだ。千夏は、ノートパソコンを抱えてベッドルームへと駆け込んだ。

試してみるものだ。ドレッサーのテーブルには、余裕はないがノートパソコンがギリギリ置ける。

背もたれのない椅子は、長時間座るのに適していないが、ここは我慢するしかない。

ようやく腰を落ち着けた千夏がふと時計に目をやると、時刻は10時半過ぎ。騒音対策に追われてしまい、1時間以上も遅れてのスタートになってしまった。



狭いテーブルで何とかやりくりしながら仕事を進めていると、チャットのポップアップが出てきた。

送り主は、課長の森田。

“お疲れさまです。今度の役員会議の資料の確認をしたいのですが、少しだけお話出来ますか?”

千夏は、チャットを開いたことを後悔した。彼はとにかく細かい性格で、資料の内容はもちろん、“てにをは”まで、とことん指摘してくる。

在宅勤務になり、森田と離れられてラッキーなどと思っていたが、彼はリモートなど一切関係なく、連絡してくるようだ。

−既読ついちゃったじゃん…。最悪。

既読にしてしまった以上、すぐに返信しないわけにはいかない。

“承知しました。ご都合のよろしい時にお願いします”と、渋々返信した、その10秒後。

今度は、“森田誠さんから着信”というポップアップが表示された。

確かに都合の良い時とは言ったが、10秒後だなんて。森田の速すぎる電話にイラっとしながら、千夏は応答した。


画面に映し出された同僚の姿に釘付けに。その訳とは…?

夫の逆襲


−何この優雅な雰囲気。

千夏は、画面に映し出された森田に釘付けになった。正確に言えば、森田ではなく、彼の自宅の様子に、だ。

見るからに広々としたリビング。画面の端っこに映っているソファでは、ゴールデンレトリバーがスヤスヤと眠っているではないか。

壁にはモダンな絵画が飾られており、まるでモデルルームのようだ。そんなおしゃれ空間の中に、気難しい顔をした森田が座っている。

はじめこそ、よく出来た壁紙かと思ったが、時々、物音に反応したゴールデンレトリバーの耳がピクピク動くから、おそらく本物だろう。

一方の千夏は、薄暗くて狭いベッドルームだ。

−私も、あんな環境でリモートワークしたい…。

千夏の目には、森田の自宅がキラキラと輝いて見えた。

これまで、森田の自宅がある千葉のベッドタウンなんて興味もなかったし、羨ましい気持ちなど、全くなかった。

銀座で暮らす自分の方が格上。そう思っていた。だが、今となっては、ただただ、森田の生活が羨ましい。

「…了解。それじゃ」

資料の確認を終えた森田は、さっさと画面から消えたが、千夏の脳裏には彼の自宅が脳内でずーっと再生されたままだった。



お風呂上がり。

ストレッチしながらテレビをつけると、緑豊かな田園風景とともに、“田舎に移住”という声が聞こえてきた。

レポーターが、“最高です!”と、笑いながら露天温泉に浸っている。

「田舎もいいなあ…」

ポロリと本音が出てしまう。すると雅人が驚いた様子で、「千夏って、田舎暮らし嫌だって言ってなかった?」と、声をかけてきた。

「そうだけど…。この部屋、狭いんだもん。在宅勤務になって、正直しんどいなって思った」

ここ数日の不満をつい口にすると、雅人が「千夏が選んだんだよ」と、言う様子が小憎らしい。

「どんなに狭くても銀座が良い。絶対に銀座に住みたいって言ったの、千夏だよね?」

「…」

痛い所を突かれた千夏は、黙ることしか出来ない。

部屋探しをしている時、一等地でなくても多少広い部屋を考えていた雅人をねじ伏せて、銀座が良いと押し切ったのは自分だ。

あの時から彼は、「いくら新築で共用部が充実してるからって、家賃管理費合わせて28万、50平米もないのか…」と、ブツブツ文句を言っていたのだから。

雅人はさらに、今の千夏の胸の内を見透かすかのようにこう続けた。

「買い物も外食も出来なくなったら、銀座に住む意味ないもんな。今になって後悔してるんだろ?」

彼の馬鹿にするような物言いに、一気に頭に血が上る。

「別に後悔なんかしてないけど」

強がって反論してみるが、雅人は「本心じゃないだろ」と、笑っている。

−ああ、頭にくる。何なのよ!?

これ以上彼と話すと喧嘩になりそうだ。一刻も早くその場を立ち去ろうと、千夏はベッドルームに駆け込んだ。

イライラした気分を解消するには誰かに共有するしかない。友人にLINEしようと、アプリを起動させると、一通のメッセージが表示された。

“私、もう旦那とやっていけそうにない…。無理”

送り主は、大学時代の友人・葉月。彼女は、10歳年上の外資金融勤めの夫と結婚し、恵比寿の広いマンションで悠々自適な生活を送っている。

高級品ばかりのプレゼントに、気分転換に5つ星ホテルステイ。そんな贅沢な毎日を送っている葉月が一体どうしたのだろう。

千夏は急いで葉月に電話した。


▶前回:銀座在住、世帯年収2,200万。最強DINKSを襲った、在宅勤務の悲劇

▶︎Next:7月21日 火曜更新予定
裕福な妻・葉月を襲った悲劇とは一体…?