今年も、夏がやってきた。

青い空、燦々と降り注ぐ太陽。そしてバケーションへの期待。夏はいつだって、人々の心を開放的にさせるのだ。

そんな季節だからこそ、あなたは“夏の恋”を経験したことはないだろうかー?

先週紹介したのは、危険な情事にハマった、真面目な女の物語。さて、今週は…。



旧山手通りで前から歩いてくる女に、私は思わず目を奪われた。

その女性は、この近辺に住んでいる人間なのだろう。

汗とは無縁な涼し気な顔をして、 細くていまにでも折れそうな足をした中型犬と一緒に散歩している。

今日の最高気温は32度になる、と朝のニュースで言っていた。もう夏なのに未だに雨の日ばかりで、暑さに増して湿度も酷い。

駅近のピーコックで夕食の材料を買って、家に帰ると『山中 大志様』と書かれた封筒がポストに入っていた。

―更新通知書だ…。

もうすぐ、大志と住んで5回目の夏がやってくる。

“私はいつまで同棲生活を続けるんだろう?”

のんびりと過ぎていく時間の中で、その疑問を感じる瞬間は、最近妙に増えてきた。

この代官山にあるマンションに決めたのは、4年前の夏の日。

私たちは20歳のときに大学のインカレサークルで出会って交際を始め、大志は大学院を卒業して誰もが知る外資系IT企業に入社を決めた。

その夏、大学時代から住み続けたアパートを出ると決めた彼が放った、『美香と一緒に住めたら嬉しい』という一言。

その一言に、当時24歳だった私はどれほど舞い上がったことか。

お互い渋谷勤務だったので、代官山にある狭めの1LDKを大志名義で契約した。

申込書の入居者欄に、“恋人”として名前を書いたときの気恥ずかしさや、内見後、こんなお洒落な街に馴染めるのかなぁと笑い合ったことはもう遠い記憶だ。

あれから、私たちは4年をかけて夫婦のような恋人になった。

―そろそろ、本当の夫婦になりたい。

28歳。平凡なOLである私の想いは高望みなのだろうか?


4年もの同棲生活を送る2人。美香はモヤモヤを募らせていき…

「朝ごはん、準備できたよ」

トーストとハムエッグの匂いが瞬く間に部屋に立ち込める。大志はルーティン生活を好むところがあって、私は4年間毎日同じ朝食を作り続けている。

だけど、たまに卵の黄身が割れてしまったときはこっそり自分で食べるし(私は特段ハムエッグが好きなわけではないので自分用には基本作らない)、気遣いは忘れていないつもりだ。

はあい、と間抜けな声でスウェット姿の大志が寝室から現れた。

朝食時、会話はないこともあるけれど、気まずさも全くない。

「最近どう、美香の会社は。営業担当も出社するようになったって言ってなかった?雰囲気とか違う?」

人材派遣会社で経理として働く私は、このご時世でも通常出勤だったのだが、営業職のみ在宅勤務となっていて、自粛期間が明けた今、ようやく彼らも戻ってくるようになった。

―同期の奈美がね、2ヵ月ぶりに会ったら結婚指輪つけてたの。去年新しい彼と付き合いだした由美も、この期間に結婚が決まったみたい。

頭の中ではスラスラ言葉が出てくるのに、“結婚”という話題の取り扱いに慎重になりすぎて、最近は言葉選びに時間がかかる。

「そうだね、明るくはなったかな?大志はまだしばらく在宅勤務なんだよね?」

「俺はパソコンさえあれば大丈夫、みたいな感じだから」

部屋には4台ものパソコンが置かれ、コードが絡まり合っている。

大志は昔から片付けも家事も得意とは言えなくて、彼の在宅勤務が始まってから、週末は“部屋の荒れ”を食い止めるのに一苦労だ。

TVの占いコーナーが始まった。

「そろそろ出ないと」

「美香、今日も傘必要」

―なんだかお父さんみたい。

朗らかで、穏やかで。男女の関係はまだ、普通にある。彼は同世代より高い年収を得るようになっても、20歳のときから何も変わらない。そんな彼が好きなはずなのに、“結婚”という一点に関しては私のモヤモヤを増幅させるのだ。

夏の雨の中、代官山から渋谷へ向かう。

どんよりとした空気の中でも、低層マンションを囲む緑は美しく発色していた。

ふいに大志と住む前、田園都市線に30分も乗って、毎日渋谷まで出勤していたことを思い出す。夏の日は駅に向かうだけで汗だくになって、メイクも台無しだった。さらに雨まで降ってしまうと湿度で髪もまとまらない。

あの頃、毎日味わっていた、車内の薄い空気と、渋谷のホームのごたごたした感じ。

「なんか懐かしいなぁ」

思わず独り言をこぼしてしまったけれど、瞬く間に雨音にかき消された。



「やっぱりいいな、エタニティ」



久しぶりに同期の奈美とランチをすることになり、会社近くの店でサンドイッチをテイクアウトした。彼女の左薬指はキラキラと輝いている。

「婚約指輪もらわなかったから、結婚指輪は奮発してもらったの。でも、大志君ならどっちもいいのもらえそうだね」

奈美は冗談交じりに笑って言う。同期の中では、彼女だけが彼の職場を知っている。

女子会として同期が集まれば、お局さんとして君臨する先輩を高望みのしすぎで結婚できないと揶揄する人もいて、私はみんなに合わせて笑いながら、心の中では自分を客観視しようと精一杯だ。

「…この間ね、2回目の更新通知書が届いちゃった。もう同棲4年目だよ。これでいいのかなぁって急に思い始めて、いい意味でこの生活を終わらせるきっかけになるものを探していたの。でもいざ手にすると、スルーされたらどうしようとか色々考えちゃって…。

ずっと大きなケンカもないのに、もしこのタイミングで起きたらと思うと不安になって、言葉選びも慎重になるしモヤモヤが募るというか…」

「うーん。なるほどね…」

既婚者となった奈美が、かける言葉に迷っているのは明らかで、私は早口に続けた。

「あっ、ごめん。こんなこと言って。とりあえず彼に更新通知書渡さなきゃね」

さっきより明るい声が出ると、奈美は応援しているよ、と背中を押してくれた。


大志との会話で出てきた女性の名前に美香は心を乱されて…?

「そういえばさ、この辺りのスーパー事情ってどんな感じ?」

金曜日の夜、久しぶりに作ったアクアパッツァを口にしながら、大志が尋ねた。

「スーパー?」

彼から普段出ない言葉だったので、思わず聞き返す。

「大学の後輩がさ、俺の会社に転職してくるんだって。この近くで家を探しているみたいで、LINEで質問されたんだよね」

図らずも私は、彼女が帰国子女で英語もペラペラだという情報まで手に入れてしまう。

―稼ぐ上に、自炊までするんだ…

放っておけばカップラーメンで夕飯を済ませてしまう大志の生活を整えていることに、自分の存在意義を少なからず感じているところはある。でも、彼の周りには私の能力を凌駕する女性がわんさかいるのだ。

穏やかに毎日が過ぎている分、たまにその現実に出くわすと私にとっては完全にカウンターパンチ。

最近は上司に評価してもらう場面も増えてきたし、今日も誉めてもらった。そのことを話そうと思っていたけれど、私はすっかり言う気がなくなってしまっていた。

「代官山アドレスにピーコックが入ってるよ。私はいつもそこかな。大志も昔、何度か一緒に行ったはずだけど」

「あっ、ごめん。いつも料理任せてしまって」

皮肉ぶったように聞こえたのか大志がとっさに謝った。

「ううん、そういうつもりじゃなくて…」

否定しようとする私に気づかず、彼はもう次の話題へと移る。

「明日、久しぶりに晴れるらしいんだ。ランチでもしにいこうか」

大志にしては珍しい提案だった。





土曜日は、久しぶりに純粋な夏を感じるような青空だった。雨に濡れても綺麗だと思っていた街の新緑は、晴れるとその比でない輝きを放つ。

私たちは代官山の『IVY PLACE』のテラス席に座り、パスタやサラダを注文した。ここへ大志と来るのは4年ぶり。きっと彼は覚えていないだろうけれど。

「4年前、マンションの内見した後も確かここでお茶したよな」

ピーコックは忘れていたのに、4年前のことは覚えているなんて意外だと言ったら、彼は苦笑してみせた。

「…なんか、あの頃は、周りがすごく立派に見えてさ、給料にパフォーマンスが全然追いついてなかったし、こんなんでここに居ていいのかなって思ってたよ。この街も、お洒落に疎い俺が住んで馴染めるのか疑問だったし。

でも美香と暮らしていると毎日穏やかに過ぎていって、そんなことも気にならなくなった」

大志はいつも、おそらく無意識的に、さらりと私の心を洗う。

「一緒にいても、いつもスマホで経済ニュースと株の推移チェックしてるのに」

同棲し始めた頃みたいな口調を取り戻していじけてみせると、大志はごめんごめんと謝った。

彼のおどけながら謝る姿に、思わず吹き出す。一緒に住むことによって大志をより好きになったし、だからこそこの街にも自然に馴染めるようになった。

「私もね、大志の気の長いところとか、自分で自分の機嫌とれるところとか好きだし、尊敬してるよ」

テラス席の開放感も相まって、素直に言葉が出る。

『好き』だなんて、何年ぶりに言ったんだろう。でも言葉に嘘はなくて、私は先を急ぐあまり、大事な関係を失うことだけは絶対にしたくないとふと思った。

「今年の夏はさ、休みとれる?」

大志とは毎年、夏に遠出をしている。私は、もちろんと答えて、今年はどうする?と尋ねた。

「今年は…美香の実家に行ってもいいかな」

驚いて見上げるとその表情に見覚えがあった。同棲を提案してきたときと同じ顔。

彼は生半可な気持ちで、自分の人生に人を寄り添わせるような男じゃないことを、私こそどうして忘れていたんだろう。4年前の夏だって、ちゃんと実家まで挨拶に来てくれたのだ。

「…もちろん」

大志はほっとしたような笑顔を見せる。

“帰る家が一緒っていいね”

恥ずかしくて同棲当初さえも口にできなかった言葉を、今日の帰りは伝えよう。美香はそう考えながら、この夏の代官山の景色を眺めていた。


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