今年も、夏がやってきた。

青い空、燦々と降り注ぐ太陽。そしてバケーションへの期待。

夏はいつだって、人々の心を開放的にさせるのだ。

そんな季節だからこそ、あなたは“夏の恋”を経験したことはないだろうかー?

▶前回:「結婚はまだ…?」女が、部屋の更新というキッカケで知った、男との“温度差”とは



―本当は私、“夏の帆”って書いて、夏帆っていう名前のはずだったの。

8月のよく晴れた、ある昼下がり。

僕は逗子海岸の波に揺られながら、ある女性の言葉を思い出していた。

沖では、慶應時代のウィンドサーフィン部の仲間が、気持ちよさそうに波に乗っている。

今日は男4人で、ウィンドサーフィンの後に飲みに行く予定だ。

僕は逗子にある別荘に滞在しており、今日は家族サービスを抜け出して、男だけの遊びに興じていた。1人早く岸に戻り、砂浜で佇みながら仲間の帰りを待つ。

そしてまた、彼女の言葉を思い出す。

―…でも父親がね、もっと古風な感じがいいって言って、葉月、になったの。

僕がその“葉月”と呼ばれる女性と出会ったのは、妻と結婚して7年目のこと。

夫婦仲に、大きな亀裂が入っていた時期だった。


結婚7年目。リョウが抱えていた、大きな悩みとは・・・?

大学の同級生だった妻との夫婦関係は良かったが、徐々に綻びが出始めたのが結婚7年目だった。

なかなか子どもに恵まれなかったのだ。

お互い、特に子どもを熱望していたわけではない。それでも普通に結婚生活を営んでいれば、当たり前のように授かるものだと思っていた。

だが都内の有名な病院で検査をしても、お互いこれといった原因が見当たらなかった。

排卵日に行われる規則的な営み。その後の「駄目だった」という妻からの報告。そんな日々が続くと、僕の頭にふとある考えが浮かんだ。


―もし、相手を変えたなら・・・?


しかしそれが例え一瞬の空想であっても、僕は大いに自分を恥じた。結婚というかたちをとることによって、妻を一生愛しぬくと、あの日心に決めたのだ。

ただ…。人間というものは、恐ろしいほどに弱い。

自分の心にぽかんと空いた穴を埋めてくれるのは、一体何なのだろうか?

そんなことばかり、日々考えるようになった。



僕は、南青山で広告の制作会社を経営している。

大手広告代理店から独立し、従業員は50名を超えていた。運が良いことに、2年ほど前に作った大手アパレルメーカーの動画広告がウケて、売上はうなぎ登りだった。

サラリーマン時代から、年収は数倍に増えた。家は代々木上原にある億ション、そして駐車場には通勤用のプリウスと、趣味で走るフェラーリの2台が停まっている。

普段から、取引先や経営者仲間と食事をすることも多い。だから放っておくと、僕のスケジュールはすぐにいっぱいになる。

子作りに励んでいたときは、それでも何とか家で過ごす時間を捻出していたが、体外受精の2度目がダメになってから、帰宅時間は深夜の1時、2時になることが多かった。


そんなとき出会った、心奪われる女性とは・・・?


葉月と初めて出会ったのは僕のオフィスで、彼女は、売れっ子の新鋭デザイナー・三浦の経営する会社に勤めていた。

「いまウェブデザインの担当をしてくれてる、白石葉月さん」

そう紹介され、ペコリと頭を下げた彼女はデザイナーらしく、とても印象的だった。

金色に染められた髪に、離れ気味な細い目の色素は薄く、独特な愛嬌がある。海外の子どものような、ファニーフェイスという類の顔立ちだった。

美人という訳ではないが、僕はこういうタイプの女性が嫌いではない。唯一の例外が妻で、意思の強そうなくっきりとした二重を持つ正統派美人だ。

その日以降もオフィスでちょくちょく彼女を見かけた。広告制作会社なので個性的な人間が多いが、彼女の独特なオーラは群を抜いていた。

だがそんな彼女でも、(社会人だから当然といえば当然なのだが)僕を見ると顔をほころばせ、きちんと挨拶をする。その度に、僕の胸は高鳴った。

彼女への感情は、魅力的な女性に感じる下心とはまた少し違った気がする。

一言でいえば、“興味”だ。

7年に渡る結婚生活が、女性に対する見方までをも変えたのだろうか?それともそれは彼女だけに感じるものなのか、判断しかねた。

そんな風に遠目から見る関係から、ぐっと距離を縮めたのは、東京が梅雨入りしたある日のこと―。


彼女との距離が一気に縮まったのは…?

このとき、うまくいかない夫婦生活に、僕はかなりのストレスが溜まっていたのだと思う。家に帰りたくなくて三浦を飲みに誘ったら、葉月を連れてきたのだ。

梅雨入り直後の、雨がひどかったあの日の朝、やましい気持ちは何もないと自分に言い聞かせながら、妻に珍しく「今日は少し遅くなる」と告げて家を出た。

その日は、代理店時代から三浦とよく行っている『ミモザ』を予約をした。

仕事が終わり、急いで店に向かうと、既に三浦と彼女は楽しそうに談笑している。僕が着くと彼女はすぐ気づき、まるで何年来かの友人のように、“お先にやっています”という風にビールグラスを掲げた。

この日は3人ともよく飲み、よく食べた。

意外にも酒に強く、細い喉を鳴らしながら美味しそうにビールを流し込む葉月に、ついつい視線がいく。

いい感じにお酒が回ると、僕らの話は大いに弾んだ。

美大出身の葉月は宝石が大好きで、将来はジュエリーブランドをやるのが夢だと語っていた。時間ができたら海外に行くのが常で、旅先で美しい宝石に出会い、そこからデザインを考えるのが何よりの楽しみだ、と。

そんな話をしながらあっという間に時間が経ち、三浦は仕事があるからと会社に戻った。残された僕ら2人はまだ飲み足りず、近くのバーに向かったのだった。

普段は聞き役に回る葉月だが、旅の話になると途端に饒舌になる。それを聞いているうちに、僕も旅に出たくなった。

代々木上原にある冷え冷えしたマンションではない、どこか遠い場所へ―。

「なんか旅に出たくなったな」

思わず僕がそう言うと、彼女はぽつりと、こう言った。

「…今日は、帰らないとダメかな」

そして僕が「え?」と聞き返すより先に、彼女は席を立つ。時刻は深夜1時を過ぎていた。

その日から、僕の頭の中は彼女でいっぱいだった。

―もし、彼女と結婚していたら…。

帰り道、そんな思いが頭をよぎった。



誰かに強く惹かれる、という久しぶりの感情に夢中になっていた僕は、葉月をたびたび食事に誘った。

そしていろんな話をしていくうちに、8月が誕生日であること、葉月という名前の由来、そして長野にいる家族のことなど、たくさんのことを知っていった。

―8月8日って覚えやすいでしょ。獅子座だから意志は強くて明るい性格なはずだけど、3人娘で中間子のAB型だから、なかなか曲者よ。



そんな彼女の誕生日が1週間後に差し迫ったある日、誕生日前日に『ナリサワ』を予約したと告げると、彼女はまっすぐな瞳でこう言った。

「…ずいぶんいいお店だね?」

電話越しに聞こえる、笑みを含んだ声。僕の胸は、ドクン、と波打つ。

「そうだよ、僕の実力を見せてやるよ」

すると彼女はしばらくの沈黙の後、こう言ったのだった。

「だったら、いつもと違うことしない?」
「いつもと違うこと?」

「相手が言いそうな3つのキーワードを、当てるゲーム。食事中、そのワードを多く言ったほうが負け。負けた方は、勝った方の望みを叶えるのよ」

即座に僕は「もし僕が勝ったら、夏休みに逗子の別荘へ行こう」と言う。葉月は僕の必死な様子に笑いながら、そして彼女の願いを聞くと「秘密」と煙に巻いた。

『ナリサワ』のコースは格別だったが、自分の考えているワードをどうにか相手に言わそうとするものだから、会話はぎこちなくおかしいものになる。そして2軒目のバーに行ったところでゲームは終了した。

帰り際のタクシーの中、お互いに考えていたワードを発表しあった。

葉月の考えていたワードの中に「逗子」が入っていて、僕が負けたのは一目瞭然だった。なぜなら僕は「葉月と逗子に行きたい」と何度も口にしていたから。

そして僕は聞いた。

「葉月の願いは、何だったの?」

すると彼女は少し熱っぽい目で、こう言ったのだった。

「明日になれば、分かるから」

彼女の願いは、何だったんだろう。僕はソワソワしながら翌朝を迎え、いつも通りメッセージを送った。

―昨日はありがとう。最高に楽しい夜でした。

しかしいつもはすぐに既読になるメッセージが、いつになっても未読のまま。その翌日も、翌々日も、一週間経っても音沙汰がなかった。


恋に落ちた既婚男。気持ちが制御できず…

不安になった僕は必死に平静さを装いながら、三浦に連絡をとった。すると彼からの返信はこうだったのである。

―彼女なら一週間前に日本を発ったよ。本格的にジュエリーデザインの勉強がしたいらしくて、世界各国を回るってさ。いいよなぁ。

目の前が、真っ白になった―。



それから、3年が経った。

ウィンドサーフィンの翌日、僕は、妻と鎌倉の小町通りを歩いていた。

目的は、妻の友人がやっているジュエリーショップ。毎年来て新作をチェックするという妻に連れられて、僕も店内をぐるっと回る。奥のほうでは、小ぢんまりとしたポップアップストアのようなものがあった。

そこには、全く名前の聞いたことのないデザイナーの、でもカラフルで印象的なジュエリーが並んでいた。

「なに?何かプレゼントしてくれるの?」

妻もそのポップアップストアの一角に入り、嬉しそうな声で言う。

「ねぇ、ファーストリングがあるよ、1歳の希美の誕生日にぴったりじゃない?」

「どれ?」と言いながらそのジュエリーケースに近づいたちょうどそのとき、金色の髪をお団子にしている、細い目の女性が僕らの目の前に現れた。

…驚くことに、それは紛れもなく、僕の前から突然姿を消した葉月だったのだ。

―なんで……?

表向きは平静さを装っていたものの、内心は混乱していた。その様子を気に留めるでもなく、葉月は僕が押しているベビーカーに目をやった。

おぎゃぁ、とベビーカーの子供が小さく泣く。

ちょうど1年前。冷え切っていたはずの僕と妻の間にできた、1人娘。もうできないものと諦めかけていたときに誕生した、新しい命。



「ねぇ、ファーストリング、買わない?」

妻は泣く希美を抱き上げ、満面の笑みでこちらを向く。そして僕はようやく現実に戻る。

「うん、いいんじゃないかな。希美の指にはずっとはできないけど、チェーンを通せば君が身につけられる」

僕はこれまで通り娘を溺愛する父としてそう返し、娘の誕生石であるルビーのリングを1つ購入した。

すると葉月がそれを丁寧に梱包し、クレジットカードのサインを求めてくる。

ちょうどそのときジュエリーショップのオーナーがやってきて、妻は店内奥の応接室に案内され、僕と彼女は2人きりになった。

「…元気してた?」

僕がそう聞くと、葉月は澄んだ声でこう言った。

「あのときは、ごめんなさい」

そして周りを見渡し、スマートフォンをそっと取り出した。画面に表示されたメモには、最後に食事をした3年前の日付で、こう書かれていた。

キーワード:
①葉月(普段は白石さん、なのに酔うとこう言う)
②ある意味(好きなアートの説明をするときに言う)
③逗子(すごく行きたそうだけど、実現したら困る!)

願い:
これ以上、リョウさんを好きにならないこと。リョウさんは、元の居場所に帰ること。

それを読んだ瞬間、僕は頭が真っ白になった。

彼女にそんな思いをさせていたなんて。そして彼女がこんな風に思い悩むくらい、僕は1番大切にすべき人…妻を裏切るという罪を犯しそうになっていたのだ。

「あなた、お会計終わった?」

後ろから聞こえた妻の声でふと現実に戻る。僕は妻に気づかれぬよう目尻に手をあて言った。

「何でもないよ。…家に帰ろう」

すると妻がふわりと顔をほころばせて、こう言った。

「素敵なファーストリング、買えて良かった。ありがとうね」

笑顔になった妻を見て、僕は妻と希美を一生かけて守り抜くと、改めて心に誓う。

そしてこの“ひと夏の恋”から学んだ想いを胸に抱き、僕は残りの夏を過ごすのだろう。

Fin.


▶前回:「結婚はまだ…?」女が、部屋の更新というキッカケで知った、男との“温度差”とは