時計はかつて人々にとって、時間を知る大切な道具だった。

しかしスマートフォンが流通した現在、時計は単なる装置ではない。

小さな文字盤の上で正確に時を刻みながら、持ち主の“人生”を象徴するものなのだ。

2020年、東京の女たちはどんな腕時計を身につけ、どういった人生を歩むのかー。

前回は、シャネル・J12を身に着ける華を紹介した。今週登場するのは、どんな時計じかけの女…?

▶前回:「会社辞める?それとも…」30歳の女が、生まれて初めてした衝動買いの内容



【グランドセイコーを身につける女】

名前:春香
年齢:27歳
職業:大手人材会社勤務
住まい:豊洲
実家:茨城


「人は見た目で判断される」身を持ってそれを知った、21歳


時計との出会いは、父からの就職祝いのプレゼントだった。

―この時計のように、芯の強い女性になってくださいね。

担当の外商が持ってきたグランドセイコーには、父親からのそんな温かいメッセージまで付いていた。

春香の実家は、茨城で有名な会社を経営している。非常に裕福な家庭だが、働くということに関しては、学生時代から出来る限りアルバイトをして社会と接点をもつべきだ、という教育方針があった。

そこで大学4年生だった春香は、父親の会社で受付のアルバイトをすることにしたのだ。

ところが働き始めて少し経ったある日、衝撃的な来客があった。

やってきたのは、強めのパーマに原色のセットアップ、いかにもアクが強そうなルックスの、50代半ばくらいの女性だ。おそらく取引先だろう。

受付に来て早々、彼女はまくしたてるように話しかけてきた。

「コレ、おたくの社員から頼まれたもの。渡しておいてちょうだい」

ぶっきらぼうにそう言って、紙袋をグイッと押し付ける。どうやら、商品サンプルを渡しにきたらしい。

「お客様、失礼ですが…」

春香が名前を尋ねようとすると、女性は顎でサンプルを示す。そこには名刺が添えられていた。

そしてさらに、その隣に菓子折りを乱暴に置いた。

「受付さん。コレ、ちゃんと代表に渡してちょうだい。不満ばっかり言っているおたくの社員が、代表が好きなものだって言ってたのよ。機嫌取らなきゃね」

―なんて失礼なのだろうか。

あきれながら、怒りがだんだんとこみ上げてくる。いくら取引先とはいえ、職業や見た目で人を判断し、ぞんざいに扱うことが信じられなかった。

もちろんこの女性は、受付に立っている春香が代表の娘だということに気づいていない。

ーせめてもう少し、きちんとしたものを身につけていればよかった…。

受付の仕事なので当然だが、春香は、自身の質素なファッションやメイク、髪形をうらめしく思った。つけていた腕時計も、大学の親友とお揃いで買ったカジュアルなファッションブランドのもの。

肌が綺麗なので普段からメイクはあまりしないが、童顔のためか実年齢よりさらに下に見られることもしばしばだ。

そして、春香は悟ったのだ。人は結局、外見ですべて判断されるのだろう、と。


結局見た目で人は判断されると、気が付いてしまった。25歳になった春香は、別人のように変わっていた…。

ーきちんとしたモノを身に着けられるオトナにならなくては。

あの一件を機に、春香は強くそう誓った。

父親がグランドセイコーの時計をプレゼントしてくれたのは、その直後のことだ。

ー高価な時計をしていれば、もう他人からバカにされることもないかも…。

当時の春香は本気でそう思っていたから、純粋に嬉しかった。そして父親が贈ってくれたメッセージの意味を理解しようとはしなかったのだ。



25歳、自分を大きく見せようと必死だった


25歳になった春香の手首には、父がくれたグランドセイコーはなく、白いラバーで文字盤にダイヤが光る、ギラギラした時計が巻かれている。

あの受付での出来事があってからというものの、人からどう見られるかで装いを決めるようになったのは、言うまでもない。

東京駅近くにある大手人材会社に新卒で入社し、早くも4年目。新人賞や月間MVPなど、いくつかの賞を受賞してきて、営業が板についてきたと言われる機会も増えた。

気が付いたら社内外ともに信頼が厚くなってきたのを、自分でも感じると同時に、お給料も増えていく。

猛烈に働き、勤務後は街に繰り出し、インセンティブが入るたびに分かりやすいブランド物のジュエリーを買っていた。

そして、その装いがきっかけで人生が変わる出会いに発展した。

『春香、今夜どう?経営者の知り合いから誘われてて、仕事終わったら飲みに行こうよ』

同期でもあり遊び仲間の美久からの誘いは、当たりの出会いが多いので断らないと決めている。

彼女は美人で、交友関係も華やかだ。毒舌なせいか敵も多いらしいのだが、裏表がない性格で付き合いやすい。

『OK、行けるよ!』

業務量と午後のスケジュールの見通しをたて、春香はすぐにそう返信した。

今日は大好きなディオールの“J’Adior”の新作ピアスに、カバンもブックトート。ノースリーブのトップスは新調したばかりのもので、トレーニングで鍛えた自慢の二の腕を、綺麗に引き立ててくれる。

―突然の誘いにものれるよう、見た目にちゃんと気を配っておいてよかった。

美久は会うなり、春香の全身を舐めるように見た後で、早口でこう言った。

「お、それは新作のピアスだね。また買ったの?売れっ子は違うね!新作買わなくても十分いい女だけどね〜」

どう受け取ったらいいのかわからない言葉だが、その真意はなんとなく透けて見えた。

彼女は春香の装いを口では褒めるものの、本心では、お金をかけて着飾る女を見下していることを知っている。結局、育ちも業績も春香の方が上なのだが、美久はこうして負け惜しみのようなことを遠回しに言ってくるのだ。

頑張って買うのが好きなだけ、と反論しようとしたが、当たりの出会いをもたらしてくれる彼女に機嫌を損ねられては困る。

ここはスルーするのがベストなはず。春香は笑ってごまかした。

待ち合わせ場所に指定された『ぎんざ阿吽 はなれ』は九州料理が美味しく、気取らないお店だ。

通された個室のドアを開けると、パリッとシャツを着こなす男性2人が談笑しながら、先に飲み始めていた。



「こんばんは、先飲んでました!忙しいところありがとう」

―えっ、タイプかもしれない…。

片方の男性に、目が釘付けになってしまった。

一見控えめのようにも見えるが、話し始めると真剣な目つきになり、その瞳の奥には自信が垣間見える。ビジネスで成功した男の余裕だろうか。

一通り自己紹介を終えて、食事会は大いに盛り上がった。

第一印象で春香が目を奪われた男性は、敬人という名前だった。そして彼は、なんと春香の1つ下だったのだ。

「しっかりしているから、年下には見えなかったです」
「苦労はしてきている方だからですかね」

サラッと答える彼に、春香は完全に心を掴まれていた。

連絡先を交換してその日は解散したが、その後はまめに連絡を取り合う仲になった。

初めて二人で食事に行った夜、彼から言われた言葉が忘れられない。

「春香さん、自分を良く見せようとして、必死に頑張ってるでしょ。そんなことしなくても、十分かっこいい女性なのに」

知り合って間もない相手からそう見られているのかと思うと、何だか恥ずかしい気持ちになる。同時に、自分のなにかが間違っているのかも、と春香は考え込んでしまった。


敬人との出会いをキッカケに、変わり始める春香。そして彼から贈られたものとは…

27歳、肩の力が少しずつ抜けるようになってきた


春香は変わらず熱心に働いているが、少しだけ変わったことがある。

モノやコトとの向き合い方と、敬人との関係だ。

過去の出来事から、“人から絶対に軽んじられない見た目が大事”だと信じて疑わなかった。しかしそんな考えを、敬人との出会いが変えたのだった。

敬人に言われた一言で、春香は初めて気が付いた。自分は背伸びをしていて、自身を大きく見せることに必死なのだと。

仕事でもすべてに全力を注いでいたが、多少は力加減をコントロールすることも覚えた。

2回目のデートの日。ギラギラの装いを崩し、父が買ってくれた時計を腕にして出かけた。さりげなく存在感を示し、ぶれない軸があるオトナを彷彿させるかのような、グランドセイコーだ。

そのときに敬人は、こんな言葉をかけてくれた。

「やっぱり、主張しすぎない方が似合っているよ」

そこから急ぐようにして付き合いだして、今日2年目の記念日を迎える。

敬人は関西に出張なので特に期待はしていなかったが、春香が仕事から帰ったら、荷物が届いた。

―108本の薔薇の花束と、時計と、短い手紙。

送り主は敬人だ。

“僕と結婚してください。春香と一緒に人生をかけて生きていきたいです。

春香のお父様が時計を買ってくれた時のメッセージ通りの女性に、春香はなっていると思うので、ご両親が大切に育てた春香を引き継ぐ意味を込めて、同じブランドの違うコレクションの時計を僕から贈ります。指輪は帰ったらね!”



そうだ。人からどう思われるかではなく、芯のある女性になってくださいと、ファーストグランドセイコーを贈られたとき、伝えられたのだった。

―私はなんて幸運なんだろう。

返事はYESに決まっている。これから先、良いときも悪いときも、周りの目を気にするのではなく今の自分を大切にして、ぶれずに生きていきたい。

手紙の返事をしようと、気が付いたら春香は敬人に電話をかけていた。


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