2020年。今までの「当たり前」が、そうではなくなった。前触れもなく訪れた、これまでとは違う新しい生活様式。

仕事する場所が自宅になったり、パートナーとの関係が変わったり…。変わったものは、人それぞれだろう。

そして世の中が変化した結果―。現在東京には、時間が余って暇になってしまった女…通称“ヒマジョ”たちが溢れているという。

さて、今週登場するのはどんなヒマジョ…?



「アユミ、ごめん。こんな時期だし、プライベートで連絡取るのはやめよう」

電話越しに聞こえた第一声に、デッドボールが直撃した時のような、不意打ちの痛みが全身に走った。

「…え?急にどうしたの?」

オンラインミーティングが終わった直後、私は無性に声が聞きたくなって、優斗に電話をかけたのだ。それなのに、彼から突きつけられたのは容赦ない現実だった。

私は、広告代理店の制作部署でWEBプランナーとして働いている28歳。優斗は、5年上の先輩だ。

同じチームになった今年の初め、プライベートでの食事に誘ってきたのは、優斗の方だった。

最初は仕事終わりに軽く一杯。そのうちに頻繁に食事に行くようになり、休日も打ち合わせと称して会ったり、静岡へ鰻を食べにドライブしたこともあった。

仕事ではもちろん敬語だが、プライベートで会う時は気楽に話せる仲になっている。

「落ち着いたら、ゴハンも行きたかったのに...」

「落ち着いたら...ね。でも、以前みたいな頻度で会うことはもうできないかな」

甘えた声でつぶやいたのに、効果は全くないようだ。

「急に、どうして?」

自粛生活に加え、梅雨が長引いたこともあり、私は外で飲みたくてたまらなかった。

テラス席で優斗と冷えた白ワインを飲んで、夕暮れの中たわいもない話題で笑い合ったりなんかして...

私のそんな些細な願いは、もう叶わないのだろうか。

だけど、本当は気づいていた。優斗がどうして私と距離を置きたがったのかを。


アユミと優斗が親密になったキッカケは…

あれは今年の初め、ようやく大きなプロジェクトにアサインされた時のこと。

仕事が丁寧だとはよく言われてきたが、そのぶん要領が悪いのか、私は毎日夜遅くまで残業していた。

そんな時に唯一、気にかけてくれたのが優斗だった。

「あれ?今日も残業?」

帰る支度をしながらも、心配そうな優しい声で近寄ってくる優斗を、今でも鮮明に思い出せる。

「営業の方たちが勝ち取ってくれた契約だから、私も本気で取り組みたいんです!一番下っ端で、迷惑かけたくないですし」

優秀な人が多い職場で、足を引っ張りたくないという本音だった。

「でも、あのコンペに出した企画自体、アユミも制作に加わっていたよね?」

「それはそうなんですけどね。でも、私はたぶん他人より努力しないとダメなんですよ」

私はふたたび、PCに向き直る。それでも優斗は帰ろうとしなかった。

「とりあえず、今日はもう十分でしょ。スタミナのつく焼肉でも食べに行こうか!」

突然の誘いに驚く。だって入社してから、ずっと密かに憧れていた先輩だったから。

「あ、今の子はこういう誘い、迷惑か。ごめん」

「いえ、迷惑なんかじゃないです。連れてってください!」

この日から、私たちは一気に仲良くなった。

優斗に奥さんがいることを知ったのも、この時だ。

つまり優斗は、恋をしてはいけない対象。深い仲になることは許されない関係。

だけど、私は仕事仲間以上の感情を持ち始めてしまっていた。



最初は、後輩として可愛がってくれているのだ、と思うようにしていたが、それにも限界があった。

優斗からのマメなLINEは、「おはよう」から「おやすみ」まで続き、既婚者だということをまるで感じさせない。

憧れの先輩が、家族よりも私に時間を使っている。それを突き放すことなど、私にはできなかった。

でも、一線は決して越えない。

自分で決めた、絶対に破ってはいけないルール。

だから、キスされそうになる度に茶化し、家に行っていいか聞かれる度に理由をつけて断っていた。でも、日に日に気持ちは大きくなっていく。

ー優斗ともっと親密になりたい...

ルールなんか、無視してしまおうか。

ついにそんな考えが頭をよぎった頃、緊急事態宣言が発令された。そして、私の日常は一気に色を失ったのだ。

優斗と一緒に仕事したり、食事に行ったり、毎日のようにLINEしたり...そういうことで満たされていた生活が、ガラリと変わった。

朝起きてPCを立ち上げ、そこからは毎日同じことの繰り返し。

それでも平日はまだいい。仕事というこなすべきタスクがあるから。

問題は、土日だ。もともと趣味などほとんどなく、休みの日は美容院やネイル、マッサージといった自分メンテに時間を費やしていた。

だから、ずっと家にいてもやることがないのだ。

料理をしようにも一人分を作るのは、時に無駄だし、恋愛ドラマや映画も観る気分にならない。

唯一、最後まで観ることができたのは、一人の男が成り上がっていく韓国ドラマだけだった。


アユミを我に返らせた、男の現実的な一言。そして傷ついた彼女が始めたコトとは…。

「はぁ」と深く呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。

家庭がある既婚男性に、電話をかけるなんて、いくら同僚でもルール違反だ。わかっているのに、暇で寂しくて、ついかけてしまったことを悔いた。

「本当に、もう会えないの...?」

わずかな希望を胸に、勇気を出して聞いてみる。

私たちは一線を越えていないとはいえ、お互いに特別な感情を抱いていたのは明白だった。

その証拠に、自粛期間が始まる前は、彼とほとんどの時間を一緒に過ごしていたのは、家族ではなく私だ。

しかし優斗は、そんな過去はまるで記憶から抜け落ちているかのように、あっさりとこう言ったのだ。

「家族が大事だからね。無駄な外出も控えたいし、そばにいてくれる人を大事にしなきゃって…本当ごめん」

優斗の話を聞いている途中から、手がビリビリと震えた。

家にいる時間が増えたことで、とにかく暇になった私とは、全く違う。彼は、1日の大半を自宅で過ごすことを余儀なくされた結果、ふたたび家族と向き合うことを決めたのだ。

そうなると、私は彼にとって“必要ない人間”だと言われたかのようだ。

「…そうだよね、わかった」

物分かりがいい女を演じて電話を切った。

仕事と恋愛を切り離して考えられるタイプの人間はいいけれど、私は違う。恋愛でショックなことがあると、仕事にも影響を及ぼす。

案の定、その後は普段はしないようなミスを連発した。何をするにも心ここにあらずで、集中力も続くはずなどなく、定時ぴったりにPCを閉じる。

心は暗いのに、外はまだ明るい。

シャワーでも浴びようかとクローゼットへ向かうと、買ってから一度も着ていないナイキのランニングウエアが目に入った。

そっと手に取って、顔に押し当てる。これは、優斗と行った御殿場のアウトレットで買ったものだ。

中学時代は陸上部だったのに、最近は運動不足だと話したことを思い出す。

周りのみんなが買っていたから、真似したApple Watchもただの時計になってしまっている。

ーよし、走ろう。

そう思い立ってから、行動は早かった。髪をまとめ、ウエアに着替えて、さっぱりとした香りの香水を纏う。

気温はまだ高かったが、外へ出るというだけで清々しい気持ちになった。



自宅がある田町から、東京タワーを目指し、芝公園へ向かう。赤羽橋を通り、六本木まで来ると一気に都会感に包まれる。

呼吸を落ち着かせるため、けやき坂を歩いていると、大学時代にサークルが同じだった友人に遭遇した。

「美緒!」
「え!アユミじゃん。久しぶり〜!」

大学時代から美緒はかなり目立っていたが、今でもそれは変わらず、艶感のあるロングヘアが彼女の美しさを引き立てていた。

「相変わらず綺麗にしてるね」
「綺麗にしてるんじゃなくて、綺麗って言ってよねっ」

そう言って笑った美緒は、どことなく元気がない気がする。

彼女もすぐには帰ろうとしない。そんな中、誘ったのは私の方だった。

「…どこかカフェでも入る?」

ランニングウェアだったので、テラス席のあるカフェを探す。

普段なら聞き役に徹するのに、口を開くと自然と優斗のことが溢れ出す。

話し終わった後、美緒は私の肩を痛いくらい叩きながら言った。

「でもさ、よかったじゃん。もっと泥沼の子、何人も見てる。アユミは頭もいいし良い子なんだから、わざわざ危ない橋渡ることないって」

「そうだよね...」

「それに、奥さんの気持ちも考えてみて。自分に置き換えたら結構エグくない?」

「うん。本当その通り。始まらなくて良かった」

美緒と別れてから、また家までの道のりを走って帰った。麻布十番を通ると、仲が良さそうな夫婦や、ベビーカーを押した女の人が目に入る。

その人たちから、なぜか顔を背けている自分がいた。

優斗に対する気持ちは、人から非難されるようなものではなく、純粋な恋心。そんなふうに言い聞かせていた。ただ、出会うのが遅かっただけだ、と。

でも、そんなことはなかった。

優斗にとって、本当に大事なものは私ではない。奥さんであり、彼の家族なのだ。

東京タワーが濃いオレンジ色に輝いていて、そんなのいつも見ているはずなのに、今日はなぜか泣きそうになった。

走っていると、体の中の嫌なものが吐く息と共に出て行き、希望を吸っている気がする。

ーこれから、暇な時間は走ることに決めた。

信号が黄色になって赤で止まって、青に変わった時にはもう、心のモヤモヤは消え去っていた。



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