何不自由ない生活なのに、なぜか満たされない。

湾岸エリアのタワマンで、優しい夫とかわいらしい娘に囲まれ、専業主婦として生きる女。

ーあのときキャリアを捨てたのは、間違いだった?

“ママ”として生きることを決意したはずの“元・バリキャリ女”は、迷い、何を選択する?

◆これまでのあらすじ

湾岸のマンションで育児に専念中の未希は、元々バリキャリ志向の女だった。

ママ友・華子の復職に心がざわつきながらも、同じママ友で専業主婦をしているまりあの価値観にも、イマイチ同意できない。未希は複雑な胸のうちに戸惑うのだった…。

▶前回:「旦那さんの稼ぎ少ないの?」タワマンのゲストルームで露呈した、女たちの静かなバトル



「私、結婚前は赤坂の美容クリニックで看護師してたんだけどね。正直、仕事が楽しいなんて思ったことなかったなあ」

日比谷公園への散歩帰りに寄った、東急プラザの『THE APOLLO』。ランチをしながら、まりあはため息交じりにつぶやく。

未希は華子主催のお茶会以来、まりあと出掛ける機会が増えた。

価値観が違う部分は多々あるが、未希はまっすぐで屈託のない彼女に引き寄せられるものを感じている。そして何よりも、互いの子どもが仲良く楽しそうなのが一緒にいて心地いいのだ。

「じゃあ専業主婦になったのは、願ったり叶ったりだったんだ」

未希はまりあのボヤキに、笑いながら尋ねた。

「そ。こう見えて独身の頃、赤坂とか六本木の辺りが遊び場で…。早く結婚して仕事辞めさせてくれそうな男を探して、見つけたのが今の夫なの」

「旦那さん、外資の証券マンなんだっけ」

「うん。忙しい人だけどね」

鮮やかなネイルに彩られた指先で口元を拭きながら、まりあは微笑んだ。輝いた笑顔が日々の幸せぶりを物語っている。

彼女はいわゆる港区女子という存在だったのだろう。

30歳前にハイスぺ男性と結婚し、タワマンに住む専業主婦となったまりあは、そのくくりの女子たちにとっての成功例だと未希は思った。


モヤモヤを抱える未希の前に、颯爽と現れたある人物

「そういえば、華子さんとは会ってる?同じマンションだよね」

不意にまりあから華子の名前が出てきて、未希は一瞬固まった。

「…いや、全然。やっぱり復職すると忙しいみたい」

実を言うと、エントランスやエレベーターホールで彼女の姿を遠くから見かけることも多々あったが、気づかないふりをして避けてしまう自分がいた。

「そうなんだ。育児もあるのに大変よね。旦那さんも忙しそうだし」

「うん…」

まりあの心配そうな声に、未希は合わせるように同意する。その時ふと、数日前に一瞬だけ見かけた華子の姿を思い出した。

あれは20時半すぎだったろうか。慎吾の帰宅後、食材の買い足しに出た時のこと。

マンションのエントランスの前で、泣き叫ぶ娘の夢ちゃんを強引にベビーカーに押し込み、金切り声をあげる華子の姿を見てしまったのだ。

―こんな時間に、0歳児にそこまで怒らなくても…。

ドン引きしながらも、一方で復職と育児の狭間で忙殺されているであろう、華子の余裕のなさを未希は気の毒に思ったのだった。

「そうだ、未希さん。咲月ちゃんってどこの幼児教室通ってるの?うち、幼稚園受験考えていて、いろいろ検討してるの」

そんなことをぼんやり思い返していると、まりあが唐突に尋ねてきた。

「幼稚園受験?」

「そう。このあたりは立地もあって、人気の園が偏って大変なんだって」

確かに咲月は幼児教室に通ってはいるが、生活リズムをつけるために通っていただけで、幼稚園受験のことまでは考えていなかった。

「そうなんだ…。知らなかった」

「できるなら名門幼稚園に通わせたいもん。大変だろうけど、子どもの将来のためだから」

真剣な表情のまりあが頼もしく見える。

まりあは確かに自分よりも年下で、服装も言動にも若さがある。未希が今まで関わってこなかったタイプだ。それなのに教えられることも多く、今では性格も含め心から尊敬している。

―子どもが同じ年で近くに住んでいるだけなのになあ。

はにかむ未希を、まりあが不思議そうに見つめていることに気付く。未希はハッと我に返り、まりあに苦笑いを返すのだった。



このまま買い物をしていくというまりあと別れ、未希はそのまま帰路についた。眠気のせいで不機嫌な咲月をあやしながら、ベビーカーを押しつつ晴海通りを歩く。

すると、なじみのある甲高い声が、未希の名を呼んでいることに気付いた。

「華子さん…!」

振り向くとそこには華子がいた。

「なーに?おでかけ?」

「ええ。さっきまで、まりあさんとランチしていたの」

「いいなあ。優雅で羨ましい。私は取材の打ち合わせの帰り」

ノースリーブの上からジャケットをさらりと羽織り、右腕にはCELINEのラゲージを提げている華子。その姿は、銀座の街並みと驚くほどマッチしている。

「…華子さんもお仕事楽しそうね」

「ええ。仕事の時間が育児の息抜きって感じ?でも、未希さんたちと会えなくて寂しいわあ」

キラキラした笑顔を向けてくる華子に対し、未希は愛想笑いをしながら、数日前の彼女の姿を思い出す。

そうすると未希は、ちょっとだけ意地悪を言いたくなるのだった。


未希が華子に放った言葉とは…

「実は少し前の夜、華子さんをエントランスで見かけましたよ。大変そうだったので、声はかけませんでしたけどね」

未希の皮肉めいた報告に華子は一瞬ハッとしたようだったが、すぐ笑顔になった。

「あれねー。ちょっとうるさかったかな?ワインで酔っぱらっていたの」

「えっ。お酒、ですか?」

「うん。復帰祝いを編集部の皆が開いてくれたの。断乳して久々に飲んだから酔いが回っちゃった♪うるさくてゴメンネ」

唖然とした。

―仕事ならまだしも、飲み会であんな遅くに帰るって…。

しかも、何も知らない赤ちゃんに対して怒鳴り声をあげていた。それを悪びれもなく話す華子が、同じ母として未希は許せなかった。

「じゃあ、次のアポがあるから。今度、お暇あったら誘ってね。行けたら行くわ」

そう言って笑顔で去っていく華子の後ろ姿を、未希は眉をひそめて見送るのだった。



「幼稚園受験か…。僕はちょっと抵抗あるな」

「そう、やっぱり…」

帰宅後、慎吾に幼稚園受験のことを話すと、彼は渋い顔を浮かべた。

夫は大学こそ未希と同じ慶應だが、福島ののどかな地域の出身。高校までずっと公立で過ごしたため、お受験に否定的なのは予想していた。

「話を聞くと大変そうだよ。ずっと子どもにかかりきりらしいし」

「大丈夫よ。私、仕事していないんだから」

未希が微笑むと、慎吾は心配そうな顔を浮かべた。

「…本当に、復帰はもうしないの?」

慎吾は当然ながら、出産前の未希の仕事ぶりを知っている。仕事が好きだったことも知っているから、疑問を持つのは当然だった。

「退職したから当たり前でしょ。また就活なんて面倒くさいよ。それに復職して、高田さんの奥さんみたいになるのも嫌だし…」

「高田さんの奥さん?」

「そう。彼女、復帰してから、育児が後回しになっているみたい。この前なんて、20時半すぎに酔っぱらって子連れで帰ってきたのを見たのよ」

未希の愚痴めいた言い訳を聞きながら、慎吾は何気ない表情でつぶやいた。

「…20時半か。ずいぶん早く退散したんだな」

その言葉に未希はハッとした。



エントランスに20時半ということは、園のお迎えのことを考えると、19時すぎには飲みの場から退散しなければいけない。

自身が主役のお祝いなら、飲むのは仕方ないだろうし、早く出るのも気が引けただろう。夜遅く思えた時間感覚も、仕事をしていればさほど遅いわけではない。

―華子さんも耐えながら、一生懸命がんばってるんだ。

未希は、華子の言動すべてを悪い意味に変換していることに気付き、自己嫌悪をおぼえる。

―やっぱり彼女のことが羨ましいんだ、私。

しかし仕事をしたいと思っても、すでに退職しているし、子どもの保育園だって認可外でさえ入れる保証はない。どうすることもできないのだ。

「ハァ…」

未希は大きくため息をつく。慎吾はそんな未希を心配そうに見つめ、「どうした?」と声をかけた。

―かわいい娘と余裕のある生活。それに優しい夫。何もかも恵まれているはずなのに…。

その時だった。

未希のスマホに、忘れたかった男の名前が映し出されたのは。

梶谷章大。前社で同期だった男だ。未希は慎吾に見られぬよう、ディスプレイをすぐに隠す。

思い出したくもないその名前は、未希の心に開いていた穴を、さらに深くえぐるのだった…。


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謎の男・梶谷とは?華子との関係もさらに溝が深くなり…。