—ありのままの自分を、好きな男に知られたくない。だってきっと、また引かれてしまうから…。

高杉えりか、25歳。プライベートはほぼ皆無、男社会に揉まれ、明け方から深夜まで拘束される報道記者。しかも担当は、血なまぐさい事件ばかりだ。

だけど、恋愛も結婚もしたい。そんな普通の女の子としての人生も願う彼女は、幸せを手に入れられるのかー?

◆これまでのあらすじ

えりかは、殺人事件の特ダネをゲットし、必死で取材を続ける日々。

プライベートでは元カレときっぱり決別し、とうとう創太と3回目のデートに行って…。

▶前回:「君の名前ググったら、動画がたくさん出てきた…」別れた男が、女を呼び出した本当の理由



ブルーのライトに照らされて、エイやいろいろな魚が悠々と泳いでいる。本当に気持ちがよさそうだ。

「癒されますねえ……」
「ですねえ」

しみじみと言うえりかに、創太はくすりと笑った。その笑顔にもまた癒されて、えりかの心がほぐれていく。

日曜日、午後4時。

昨日の夜、桑原に「今回は3回目のデートなんで、まじでテロとか起きない限り呼び出さないでください」と強くお願いしたことは記憶に新しい。

今のところ事件も事故も発生せず、すみだ水族館で平和なデートを楽しんでいる。

「あ、えりかさん見て。ちっちゃいサメ」
「え!どこですか?」
「あそこ、ほら…」

巨大な水槽に向けて、創太のすらりとした指が伸びた。目を凝らすえりかに、創太が「そこそこ」と少し身をかがめて腕を伸ばす。

癖のない黒髪から清潔な匂いがふわりと香り、鼻腔をくすぐる。その距離の近さに、心臓がどきりと跳ねた。

「いつも忙しいから、少しでもリラックスできているといいな」

柔らかな微笑みに、優しい声。えりかはおずおずと口を開く。

「創太さんは、忙しすぎる女の子、嫌じゃないんですか…?」

創太は瞬きをし、ゆっくりと首を横に振った。

「やりたいことを頑張っているならすごく素敵だよ。芯があって、誇り高くて、魅力がいっぱいだと思う」

体調は心配だけどね、と付け加えて小さく笑う。

「…創太さんと付き合う人は、きっと幸せだろうな…」

ぽつりと呟いた言葉は、本心だった。創太が切れ長の瞳を、僅かに見開く。

「…えりかさん」

永遠にも感じられるような少しの間を置いて、創太はおもむろに口を開いた。まっすぐに向けられた視線が、交差する。

「えりかさんに、話があります」

緊張で、手のひらがじんわりと汗ばむのを感じた。3回目のデート、水族館。えりかが用意している返事は決まっていた。

「…はい」

周囲の家族連れや高校生カップルの賑やかな話し声が、遠くのBGMのように聞こえる。ぷかぷかと浮かぶクラゲは幻想的で、2人だけの世界のようだ。

「11月から、博多に異動することが決まりました」


まさかの転勤報告!想定外の創太の告白に、えりかは…!?

「……え」

“こちらこそお願いします”という、頭の中で何度も練習したセリフ。代わりに飛び出たのは、驚きのあまり言葉にならない声だった。

創太の眉がわずかに下がる。いつも飄々としていた彼の、初めて見る表情だった。

「任期は2年間で、終われば東京に戻ってきます」
「2年…」

返す言葉が見つからず、ただ反芻する。すると創太は、えりかの手に触れた。

「困らせてごめんね」

ひんやりと低い体温が、創太からえりかへゆっくりと伝播していく。

「連絡はこまめにするし、月に1回は会えるようにしたい。もしそれでも良ければ、結婚を前提に俺と付き合ってください」

美しい水槽の中で、クラゲが傘を開いては閉じ、閉じては開く。思考回路もクラゲのようにふわふわとして、何も考えられなかった。





月曜日、午前11時半。

昨夜の眠りは浅く、頭がぼんやりと鈍っている。幸い事件や事故の発生もなく、珍しく午後も取材予定がない。

のんびりしよう。そう思いながら適当な中華料理屋の暖簾をくぐり、年季の入った椅子に腰掛けた。

「醤油ラーメンでお願いします」

水が運ばれたのと同時に注文を告げ、ため息をついた。

スマホを見るが、通知はない。そりゃそうだよな、と両肘をついた手で顔を覆った、その時。

『次のニュースです。複数のペットショップから高級な品種のイヌやネコを盗んで転売したとして、40歳の男が逮捕されました』

店の天井近くに設置されたテレビの音声に、えりかは顔を上げた。

画面には、警察署に連行される男の顔。左上に表示されたテロップは、『福生署・午前8時ごろ』。

福生署は、TQBテレビを代表してえりかが取材を担当している署だった。サーッと血の気が引くと同時に、仕事用のスマホが振動した。

本郷キャップの名前に思わず目をつぶる。すぐに震える指で通話ボタンをスライドした。

「おう、見た?」

鼓膜を揺らす低い声に、えりかは消え入りそうな声で「はい」と返す。

「福生署って、お前の担当だよな?」
「そうです…」
「全社やってるぞ、このニュース」

めまいで視界がゆがみ、『特オチ』の二文字が脳内をぐるぐると回った。

他の社は報じているのに、1社だけがそのニュースを知らない。記者はみな、この『特オチ』を恐れている。一番不名誉で、一番恥ずかしいことだからだ。

「動物ネタは番組の食いつき良いのわかってるよな?」
「はい…」
「福生署、どのくらい通ってた?」
「……」

その時、がちゃん、と目の前にドンブリが置かれた。透き通ったスープに、艶々の麺。湯気と共に香ばしい醤油の匂いが立ち込めるが、胃が締め付けられるように痛い。

「練馬の事件で独自ネタ取りまくったのはえらかったけど、お前が取材しなきゃいけない事件はそれだけじゃない。早急に裏どりして」

本郷は厳しくそう言い、えりかが返事をする前に電話は切れた。

警察署が広報をする案件では、ニュースを世間に知らしめたい署の幹部が事前に「こんなネタで被疑者を明日パクる」と担当記者に連絡することがある。

そうすれば被疑者の顔が撮影できて、テレビ局は逮捕された直後にニュースとして放送しやすくなるのだ。

だが、警察も人間だ。いつも署に足を運んで、お茶を飲んで雑談をする記者のほうが可愛いのは当然である。

今回は福生署の幹部が、顔なじみの記者に連絡した。だが、えりかはその中に入っていなかった。Tテレで福生署を担当していたのはえりかだったから、責任はえりかにある。

バッグを持って立ち上がろうとしたが、一口もラーメンに手を付けていないことを思い出し、えりかは椅子に座りなおして割り箸を握った。

勢いよくすすり、飲むように食べる。味は全く分からなかった。


仕事も失敗し、創太との関係にも悩むえりか。そこに、思いがけない展開が…!


「おー、生きてる?目死んでるぞ」

メニューを眺めていた桑原は、『タル家』に入ってきたえりかに気付いて苦笑した。

『夜討ち1件だけ行ったら、チーズフォンデュ食いに行かない?』

桑原からそんなLINEが来たのは、夕方のことだ。

福生署に駆けつけて事件の詳細を取材し、夕方のニュースには放送できた。ただし、被疑者の顔はない。警察署の外観の映像のみで作られたニュースは味気なく、情けなさに肩を落としているときだった。

「桑原さん、いつもありがとうございます」

チャミスルの瓶を桑原が持つコップに傾けて注ぎながら、えりかは言った。

「何のお礼だよ」
「私がミスしたり落ち込んだりしていると、こうやっていつも連れ出してくれるじゃないですか」
「そういうわけじゃないよ、こういうメニューは1人じゃ行きづらいから呼んだだけ」

いいからいいから、と桑原が瓶を取り、えりかにグラスを持つよう促す。えりかは「ありがとうございます」と、もう一度頭を下げた。



「で、彼ジャケくんと3回目のデートどうだったの?」

ぐつぐつと煮立ったチーズに肉を絡ませながら、桑原が言った。

「いや…告白はされたんですけど」
「けど?」

えりかは息を吐き、チャミスルを一気にあおった。キンキンに冷えたアルコールが、喉を滑り落ちる。

「転勤するんですって、博多に。しかも2年」
「まじか、それで?」

あのとき、創太の告白に、えりかはたっぷり20秒ほど押し黙って言葉を絞り出した。

ー少し考えさせてください。

警視庁の担当記者は、基本的に東京23区を出られない。出るにしてもキャップの許可が必要だった。おいそれと、博多に行くことはできない。

「相手はなんて?」
「『もちろんです、返事はいつでもいいです』って」
「なるほどなー」

えりかは緑色の瓶を持ち、透明の液体を手酌で注ぐ。今日はとにかく酔いたい気分だった。

「仕事もプライベートも、ダメダメです…」
「仕事は別に、そんなことないだろ。大山里美さんの幼馴染の独自インタビューも撮れたしさ」
「本郷キャップには、『お前の取材する事件はそれだけじゃない』って言われちゃいました」

うーん、と桑原は唇を尖らせる。

「まあ特オチは痛かったけど、誰でも1回はやるし」

俺も昔やったし、と言いながら、桑原は肉の乗った大皿をえりかに差し出した。

「失敗を気にするんじゃなくて、成功を誇ったほうが楽しく生きれるっしょ」

桑原の少し訛りの残った話し方が、ささくれ立っていた心を優しくなだめる。えりかは思わず小さく笑った。

「桑原さんといると、ほんと元気出ます」

チーズに入れる野菜を吟味していた桑原の手が、ぴくりと止まった。そして、視線が上がる。

「…じゃあ、俺にする?」

一瞬、時が止まった。

えりかは瞬きをし、とりあえずチャミスルの瓶を手にするが、さっき注いだばかりだったことを思い出す。

「俺は“事情を分かってる同業者”だし、ずっとそばにいるよ」

桑原の瞳が、真っすぐにえりかを見据えている。ぐつぐつと音を立て、火が入りすぎたチーズが焦げついていた。


▶前回:「君の名前ググったら、動画がたくさん出てきた…」別れた男が、女を呼び出した本当の理由

▶NEXT:9月28日 月曜更新予定
最終回:好きだけど遠く離れてしまう創太か、兄のように慕っていた桑原か。えりかが選ぶのは…