2020年。今までの「当たり前」が、そうではなくなった。前触れもなく訪れた、これまでとは違う新しい生活様式。

仕事する場所が自宅になったり、パートナーとの関係が変わったり…。変わったものは、人それぞれだろう。

そして世の中が変化した結果―。現在東京には、時間が余って暇になってしまった女…通称“ヒマジョ”たちが溢れているという。

さて、今週登場するのはどんなヒマジョ…?

▶前回:「今ならやっても誰にもバレない…」男に愛想をつかされて、32歳の女が中毒的にハマったこと



「ねぇ、しゅーちゃん、まだ寝ないの?」

23時30分。寝室にいた私は、ベッドを抜け出してリビングをそっと覗く。そして夫に向かって甘えた声でそう問いかけた。

だが夫は、私の顔を見ることもなくスマホに夢中になっている。

「まだ眠くないから、寧々ちゃん先寝てて〜」

その声は明るく、罪悪感のカケラもないようだ。

ーはぁ。またか...

私だって、本当はまだ眠くない。

でも、結婚生活を始めた頃、23時にはベッドに行くようにしようと言ったのは修平の方なのだ。

夫の修平は、胡蝶蘭を中心に法人へ花を販売する会社を経営している。私と同じ32歳だが、ビジネスの才能があり頭の回転も速く、尊敬することばかりだ。

そんな夫を支えるために、私は仕事を辞めて専業主婦になった。そうして結婚生活は約2年を経過しようとしている。

修平はほとんど家事をしない。会食が多いため夜も遅いことが多く、二日酔いの日なんてソファと一体化していて全く機能しない。

でも私はそれでも構わなかった。だって、家庭のために彼が仕事を頑張ってくれているのを知っているから。

唯一にして最大の悩みは、他にある。

20、21、22…ベッドに寝そべりながら、“しなかった日”をスマホのカレンダーで数える。

ー27日間。

そう、私たちはレス...になりかけている。

1ヶ月以上ないカップルが、それに当てはまると定義されているみたいなので、今はまだギリギリ予備軍だが、感覚的には結構ヤバいと思っている。

なんとかしなくちゃと思うものの、決定的な方法を探せずにいるし、もしかしたら解消法なんてそもそも存在しないのかもしれない。

「わはははっ」

大好きなお笑い番組でも観ているのだろうか、リビングから修平の笑い声がする。

私がこんなに悩んでいるのに、まるで気にしていないことが悔しくて、自分ばかりが焦っているのも惨めで、涙が出そうになった。


夫婦に忍び寄る、レスの危機。こうなったのは、自宅で過ごす時間が増えたせいなのか…?

寝る前の軽いキスや、ハグは日常的にある。だが、その先に繋がる気配がしないのだ。

結局一人でベッドに戻り、モヤモヤとした気持ちのまま、無理やり目を閉じて眠ることにした。

「ムカつくから、夢の中で好きなアイドルと浮気してやる」

そう呟いてみても、夢をコントロールできるはずがない。気づいたら朝を迎えていた。



「寧々、おはよう」
「早いね。もう仕事してるの?」

目をこすりながらリビングへ行くと、夫はもう着替えを済ませ、コーヒーを片手にPCを開いている。

「そう。大事なクライアントからの急な注文が入ってさ。これは部下には任せられなくて」

「しゅーちゃん、今日も家で仕事する?」

「そのつもりだよ。4月から外で打ち合わせしなくなって、zoomばっかりなんだけど、もうそれでいいかって思ってさ」

「そっか...」

専業主婦の私と、ほとんど家で仕事をする夫。

私が毎日寝る寸前までメイクをして、ワンピースなど女性らしい服装を心がけていても、常に一緒にいることはどうしても”慣れ”を生む。それがレスの原因の一つであることは、間違いない。

全ては、世の中がこんな状況に陥ったせいだ。

だけどそう決めつけたところで、気持ちは休まらない。なぜなら、私はいつだって修平としたいと思っているから。

それなのに、夫から誘われることがどんどん減っていく、悲しい現実。

私の欲が人一倍強いとかそういうことではない。

ただ、夫からの愛を感じたい。女として、自信をなくしてしまいそうな不安な気持ちを払拭してほしい。それだけなのだ。

最初のころは勇気を出して自分から誘ったこともある。でも、数回断られた後は言い出すことも怖くなり、本心を伝えていいのかどうかもわからなくなっていた。

「じゃあ、私はカフェにでも行ってこようかな...」

「うん、行ってきな。気分転換にもなるだろうし」

修平は、屈託のない笑顔を向けた。ちょっと前なら、「一緒に行こうかな」などと言ってくれていたが、今はそれすらもない。

私は不機嫌な態度を見せないようにして、一通りの家事をこなし、お昼を食べてから読みかけの本を持って家を飛び出した。

近所のカフェに着くと、PCを広げている人が多く、それぞれが静かに集中している。

気晴らしにやってきたはずなのに、その光景を見ていたら逆に気持ちが沈んでしまった。仕事に没頭している人たちを見ると、自分が社会から取り残された気持ちになるのだ。

結婚前、私は航空会社の地上職をしていた。仕事は楽しかったが、好きだった制服も、空港の独特の雰囲気も、全てはもう過去のこと。

ー仕事を辞めていなかったら、もっと違う人生だったかな...

持ってきた本を数ページめくったが、全く集中できず、本をぱたんと閉じた。そしてスマホを取り出し、ラペルラのランジェリーをいくつかオンラインで注文する。



髪を切っても気づかない夫だ。こんなことをしても効果があるとは思えないのだが、何かしないと胸が押しつぶされそうだった。

ー寂しい...

すっかり冷めてしまったカフェラテを見つめながらぼーっとしていると、後ろから声をかけられた。


声をかけて来た昔の同僚から、ある男性と連絡を取ってほしいと言われ…

「あれ、寧々さん?きゃー!お久しぶりです!!」

「葵ちゃん。びっくりしたぁ。どうしたの?スーツなんか着て」

葵は、前の会社の後輩だ。

私が仕事を辞めてからは連絡を取っていなかったが、前はよく一緒に食事会に行っていた仲だ。

「実は、私も数ヶ月前に会社辞めて、転職活動中なんですよ。それよりどうですか?新婚生活。羨ましいなぁ」

葵は向かいに座り、マスクを外すとアイスコーヒーを美味しそうに飲んでいる。

一方で私は、表情を曇らせたまま黙り込んでしまった。

「...もしかして喧嘩中とかですか?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけど」

「だけど?」

葵が顔を覗き込んでくる。

「誰にも言わないでよ?その...最近レス気味でさ」

近くに人がいないことを確認してから、小さめの声で告白した。葵とはそこまで深い間柄じゃないからこそ、言えたのかもしれない。

「え!!」

「ちょっと、声が大きい!」

「ごめんなさい。もしかして、寧々さんが拒否られてる方だったり?」

「うん...」

「そうなんですか、こんな綺麗な人...独身の男性が聞いたら放っておかないだろうに」

そう言われて、不意に懐かしい思い出が蘇る。

確かに結婚する前は、かなりチヤホヤされていた。仕事中に声をかけられることもあったし、CAでもこんなに綺麗な人はいないと食事会でよく言われたものだ。

高所恐怖症だけど飛行機が好き、というお決まりの自己紹介に、男性陣はみんな愛おしそうに目を細めていたっけ。

その時、葵が何やら意味深な表情を浮かべ、スマホ画面を見せてきた。

「寧々さん、この人覚えてます?いつかの食事会で寧々さんのこと口説いてた、2個上の眼科医」

「あ〜。なんとなく」

「この前、結膜炎で赤坂の眼科に行ったら、その人がいたんですよ。それで寧々さんのこと聞かれて...連絡先教えちゃまずいですかね?気が紛れたらなぁって」

私は結婚してから、他の男性と食事に行くことはおろか、連絡すら取ったことがない。それが妻としての自分なりのケジメだったからだ。

しかしこの時は、葵に向かってこう答えた。

「...いいよ」

ついOKしてしまったのは、むしゃくしゃしていたからかもしれないが、同時に、私を女として見てくれない夫への小さな仕返しのような気持ちもあったと思う。

「本当ですか?絶対喜びますよ!」

葵と別れた後、すぐに眼科医の男性から連絡があった。

『葵ちゃんから聞きました。すごく魅力的だったので忘れられなくて、今度よかったら飲みにでも行きませんか?』

ー魅力的...。

異性から女性として好意を持たれ、褒められたのは、いつぶりだろう。私はまだ女なのだという安心にも似た高揚感と、夫への罪悪感が入り混じる。

といっても、食事をするだけだ。もちろん一線を越えようなんてつもりはない。

それなのに、決して足を踏み入れてはいけない世界の扉を開けてしまったような、このおかしな感覚は何だろう。



「ただいま〜」

「おかえり、寧々」

「ごめんね遅くなって。お腹すいたでしょ、すぐごはん作るね」

あの後も葵と話し込んでしまい、家に着く頃にはすっかり日が暮れていたのだ。

手を洗ってエプロンをすると、ふいに後ろから、ふわっと抱きつかれる。



「寧々、今の生活楽しい?」

「どうしたの?急に」

「仕事してた時のほうが楽しそうだったよね。もしかして、俺のせいかなって、ずっと思ってたんだ」

「しゅーちゃん...」

予想もしていなかった修平の言葉にハッとする。

ー私、そんな風に見えてたんだ...

「美味しいもの食べに行こうか?久しぶりに寧々とお酒飲みたいよ」

「うん」

修平の方へ向き直って、思い切り抱きしめた。彼の笑顔、体温、そして匂い。こんなに安心できるのは、他の誰でもない修平だから。

やっぱり、私はこの人が好きだ。だから絶対に失いたくないし、このまま諦めたくない。

ー私、なんて最低なことをしようとしていたんだろう…。

他の人と会おうだなんて、少しでも考えた自分を恥じた。

フルタイムじゃなくても何か仕事を始めたら、私たちの状況も変わるかもしれないし、修平も仕事で疲れていたのかもしれない。

そう思うとポジティブになれた。

店へ向かうタクシーの中で、眼科医の連絡先を削除し、葵には謝罪の連絡を入れた。

「ねえ、今日このままどこかに泊まろうか」

周平が手を握り、微笑みながら言う。

その手は温かく、刺激的な恋とは違う、じんわりとした愛しさが胸にこみ上げた。


▶前回:「今ならやっても誰にもバレない…」男に愛想をつかされて、32歳の女が中毒的にハマったこと

▶Next:10月3日 土曜更新予定
コロナ禍で転職が難航…葵が始めたこととは!?