何不自由ない生活なのに、なぜか満たされない。

湾岸エリアのタワマンで、優しい夫とかわいらしい娘に囲まれ、専業主婦として生きる女。

―あのときキャリアを捨てたのは、間違いだった?

“ママ”として生きることを決意したはずの“元・バリキャリ女”は、迷い、何を選択する?

◆これまでのあらすじ

元々バリキャリ志向だが、現在は育児に専念中の未希。ワ―ママぶりを見せつけるママ友・華子に翻弄されながら、復職へ心揺らぐ日々を過ごしていた。

そんな中、前の会社の同期・梶谷から連絡があり…?

▶前回:「仕事が育児の息抜きなの」“充実ぶり”をアピールするワーママに、専業主婦の女が放った一言



「佐橋さん、ここにメセン下さい」

「め、メセン?」

代々木公園の木漏れ日の中、未希は咲月を抱き、慣れないポーズを決めていた。目の前には華子を含む数人の撮影隊と、ふう君を抱くまりあの姿がある。

「カメラ目線の“メセン”ね。カメラマンがあげている手の辺りを見て」

華子のアドバイスに、未希は慌てて目線を合わせる。

その日、未希は華子の依頼で育児雑誌の撮影に参加していた。

華子の勤務する出版社が発行している、育児雑誌のスナップページ。そこに掲載する人が足りず、急遽お呼びがかかったのだ。

未希の次に撮影が始まったまりあは、やけにこなれている。ファッションも親子コーデで決めて、かなり張り切っているようだ。

最初は断るつもりだった、華子の誘い。しかし、まりあがやけに乗り気で断りきれなかった。

ちなみに、その育児雑誌は華子が担当しているものではない。彼女はどうやら、未希たちを心配してわざわざ来てくれたらしい。

未希は撮影隊と談笑する華子を、冷ややかに眺める。

―“仕事している私”を見せつけたいだけかしら。

またイヤな想像を膨らませてしまった自分に、未希はハッとする。その気持ちを払拭するかのように、慌てて笑顔を作るのだった。


未希のプライドをズタズタにした、華子の一言

「今日はありがとう。編集部のみんな、本当に助かったって言っていたわ」

「そんな!私こういうの出たかったんです♪」

撮影後、お疲れさま会と称してランチに立ち寄った『コード クルック』のテラス席で、まりあは声を弾ませている。



「また機会があったら編集部から連絡あると思う。私も抱えている仕事いっぱいあるから、次はお付き合いできないかもしれないけど」

「大丈夫です!ぜひぜひお願いします♪」

屈託ない笑顔を見せるまりあの横で、未希はぎこちなく笑う。華子はその不自然さに気づいたようだった。

「…未希さん、元気なさそうだけど。どうしたの?」

「あ、いえ。華子さん、お仕事大変そうだなあと思って…。旦那さんも今、海外ロケ中なんですよね」

未希はあえて心配するように言うと、華子は待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。

「そうなの。夫は今、NYにいてね。でも子どもは保育園だし、家事は外注だから。ま、なんとか大丈夫よ」

「お手伝いさん頼んでるんですか!すごーい」

まりあの色めき立った声を聞きながら、未希は華子に自慢する機会を与えてしまったことを後悔した。

「人の手を借りれば、両立もさほど苦じゃないよ。未希さんもまりあさんも、気晴らしに仕事してみたら?クリーニング屋とか配達員とか、託児付きのパートけっこうあるよ」

―気晴らしって…。

パートの仕事がイヤなわけではないが、大手企業で誰よりも仕事をしていた未希にとって、その提案はどこか癪に障った。

だからといって、ママの集まりで過去の実績を語るなど、定年後のおじさんのような言動をする気にはならない。未希は心を押し殺し、鎧のような笑顔を作る。

すると、屈託なく話すまりあの声がテラスに響いた。

「仕事で気晴らしなんて旦那に怒られちゃう。私、家事でさえままならない状態なのに!」

その言葉に、未希はつい吹き出してしまう。しかし、華子に対するモヤモヤは晴れないのだった。



先輩ママグループのランチ会


それから数日後。

未希はまりあの誘いで、近所の先輩ママグループのランチ会に参加することになった。

ランチ会と言っても、マンションのパーティルームに飲み物だけ持ち寄って、デリバリーやケータリングを食べる自由な集まりなのだという。

「咲月ちゃんママ、今日はわざわざありがとうございます」

この会を主宰しているという長瀬沙耶香が優しく声をかけてくれた。

「いい人でしょ?未希さんにぜひ紹介したくて」

まりあによると、彼女は未希と同い年。しかし上に小学生の子どもがおり、ママとしては3人の子を持つ大先輩らしい。

湾岸エリアの住民としても古株で、幼稚園受験に特化した幼児教室をまりあが見学した際に、同じ0歳児の子がいる沙耶香と知り合ったのだそうだ。

―いわゆるボスママね。

輪の中心にいる沙耶香を眺めながら、未希はテーブルの上に並べられた窯焼きのピザを何気なく口にした。

「…えっ!?」

パリパリの生地の風味と、コクのあるとろりとしたモッツァレラチーズの相性が抜群のマルゲリータは、病みつきになりそうな味だ。

あまりの美味しさに、未希は思わず2枚目のピザを手に取ってしまう。

「…咲月ちゃんママ、そんなにマルゲリータ好きなんですか?」

驚愕したような沙耶香の声に、未希はビクッと肩を震わせた。


“タワマンママ友会”の独特な空気に、未希は…

「すみません、1枚ずつですよね…」

バツの悪い顔で未希が謝ると、沙耶香はカラッとした声で「いいの、どんどん食べて下さいね」と微笑んだ。

「このピザ、家族でよく行く店のなの。みんなにも是非食べてほしくて多めに頼んだから、どうぞ遠慮しないでくださいね」

授乳で席を外していたまりあが戻ってきて、同じくピザに手を伸ばす。

「本当だ、すっごく美味しい!」

他のママたちもどれどれとピザを手に取り、パーティルームは感嘆の声に包まれた。びっくりするほど和やかだ。

―なんかこの空気感、好きかも。

優しい沙耶香に気さくなまりあ。他のママたちも上品ながら、のんびりと肩肘張らない雰囲気。

未希はイメージだけで沙耶香を“ボスママ”と乱暴に称してしまった自分を恥じた。

そんな中、ふう君がぐずり始め、まりあは帰宅してしまった。1人になった未希を気遣うように、沙耶香が声をかけてくる。

「咲月ちゃんママは、お時間大丈夫?」

「はい。咲月も寝たのでもう少しいてもいいですか?」

内輪だけで盛り上がっていた華子のお茶会とは大違いだ。彼女との話は自然と弾み、その中で何気なく仕事について尋ねられた。

「私、出産を機に退職したんです。だから今は専業で」

「ならまたお誘いしますね。色々お話ししましょう」

親し気に手を握ってきた沙耶香に、未希の胸が痛んだ。

「だけど私、復職を考えていて…」

未希は思わず、復職したいという思いを沙耶香に告白してしまう。…もしかしたらずっと、誰かに言いたかったのかもしれない。

気付けば、華子への重い気持ちも吐露してしまう自分がいた。

「結局羨ましいんです。私、以前は仕事をバリバリしていたから。彼女には悪気がないと分かってるんですけど…」



ただの自虐にもかかわらず、沙耶香はじっと耳を傾けてくれている。

『子供が大きくなるまで我慢できない?』
『仕事する理由は?』
『後悔するなら育休とればよかったのに』

本音を吐き出したら、そんな非難を浴びることは分かっている。だから言いたいことも溜め込んでしまっていた。しかし沙耶香は親身にうなずき、受け止めてくれたのだ。

「自覚している分、辛いだけですよ。大丈夫、皆そういう思いを抱きます。ママもワガママでいいんです」

「ママも、ワガママ…?」

シャレか本気なのか分からなかったが、彼女の言葉で肩の力がふっと抜けたような気がした。

―沙耶香さんに話せてよかったな。

そして未希は、真剣に復職したいという気持ちに向き合おうと決意したのだった。

―だけど仕事もないし、保育園に入れる保証もない。

悩むほど、未希の脳裏には先日、唐突に電話をかけてきた梶谷の顔が浮かんでくる。…彼は、未希が退職せざるを得なくなった、きっかけを作った男だ。

あの後、一応礼儀として彼が絶対に出ない時間を見計らって折り返し電話をかけたが、案の定繋がらず、それから1週間連絡はない。

帰宅後、未希はある予感がして、長らくあけていないPCメールを開いてみた。

すると、数百件のメルマガの中に『会いたいです』という件名のメールが一通、埋もれていることに気付いたのだった。


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梶谷からの『会いたい』というメールに、未希が出した答えとは…