何不自由ない生活なのに、なぜか満たされない。

湾岸エリアのタワマンで、優しい夫とかわいらしい娘に囲まれ、専業主婦として生きる女。

ーあのときキャリアを捨てたのは、間違いだった?

“ママ”として生きることを決意したはずの“元・バリキャリ女”は、迷い、何を選択する?

◆これまでのあらすじ

湾岸のマンションで専業主婦として育児に専念する、元バリキャリ女子の未希。

復職への想いを再燃させていたが、ママ友の華子が仕事先で疎まれていることを知ってしまい、複雑な感情を抱くのだった。

▶前回:娘を実家に預け、男と会っていたことがバレた妻。言い訳する女に夫がかけた言葉とは



「目標、というか、希望が無くなっちゃって」

マンションへの帰り道。未希はベビーカーを押しながら、街で偶然会った前職の後輩たちの言葉を噛みしめていた。

出産前、未希が“鉄の女”と言われるほど仕事に精を出していた理由は、ひとつではない。しかし、そのほとんどは「自分の力を試したい」というような自分本位の理由だった。

―いつの間にか、私は希望になっていたんだ…。

感情に流され会社を退職してしまったことの重さを、未希は改めて感じたのだった。

「未希さん!」

そんなことを考えていると、どこからか誰かが未希を呼ぶ声に気付いた。

「まりあさん…」

声の方を見ると、まりあがいた。彼女はどこかに遠出するかのような、たくさんの荷物を持って立っている。

「LINE、返せなくてごめんなさい」

「いいの。私も返事を催促して、ごめんね」

まりあはどこかやつれた様子で、すぐに彼女だと認識するのに時間がかかった。その時のまりあはどこか光を失い、影さえも帯びているような雰囲気だったからだ。

未希はその様子に、ただ事ではない雰囲気を察する。それに一番の異変は、彼女が息子・ふう君を連れていないことだった。

「ねえ、ふう君はどうしたの?」

「実は…」


まりあの身に、何が起きたのか…?

未希は、マンションのエントランス横にあるラウンジへ、まりあを招いた。聞くと彼女は、ここ数日かなり大変だったようだ。

「RSウイルス?」

「そう。快方に向かっているけど、こじらせて入院しているの。今日は荷物を取りに来て…」

まりあは相当の疲労と心労をためているようだった。

「じゃあ、あまり引き留めない方がいいね」

「大丈夫。こうしてお話しできるのとても楽しいから。看護師さんからも、ゆっくり息抜きしてきて下さいって言われたの」

看護師にそう言われるくらい、まりあはずっと看病し通しだったのだろう。未希はそんな背景を想像できず、LINEの返信に固執していた自分を悔やんだ。

「大変だったんだね…。旦那さんは?」

「夫は忙しくて、頼れなかったんだ」

まりあは寂しそうに微笑む。激務の外資系証券マンの夫に対し、あきらめも入っているようだった。

「でも、大丈夫。沙耶香さんも心配の電話をくれたし、本当にみんなに迷惑をかけたね。ごめんなさい」

「私はいいの。状況が知れてよかった」

「そうだ、変なLINEをしたままだったよね」

未希の中では、もはやどうでもよくなっていたことだが、聞いてスッキリしたい気持ちもある。恐る恐るまりあに尋ねると、案の定といった答えが返ってきた。

「華子さんが『未希さんとイケメンがホテルで密会していることを、旦那さんの前で言っちゃった』って笑いながら話していたの」

「イケメンと、密会…?」



華子が言っていることは、状況的に間違いはない。

だが、何かやましい関係であるかのような言い方だったこともあり、未希は大きくため息をついた後、真相を説明する。

「なるほど…。未希さんがそんなことする人じゃないって思っていたけどね。話を聞いていると旦那さんも優しいし、ラブラブだし」

「まあ、もうどうでもいいことだけど」

すると、まりあが羨望の目で自分を見ていることに気付いた。

「未希さんって優しいですね。そんな気持ちの余裕、私も持ちたいな…」

未希の胸がチクリと痛んだ。実は華子に対する感情の余裕なんてない。ただ、華子の仕事場での様子を小耳に挟んでから、コロッと考え方を変えただけなのだ。

「あ、噂をしていたら…」

まりあの声にドキッとし、エントランスの方に目をやると、華子が子どもを連れて入ってくるのが見えた。

「こんな時間に帰るって、保育園から呼び出しがあったのかな」

子どもはどこか、グッタリとしているようにも見える。未希とまりあは気が引けて、華子に声をかけるのを見送った。

「風邪が流行る時期ですからね。咲月ちゃんも気を付けて」

しっかりとしたまりあの言葉に、彼女がかつて看護師として働いていたということを思い出す。

彼女のことだから「仕事が楽しくなかった」と嘆きつつも、テキパキと明るい仕事ぶりだったのだろうと想像した。

反対に、仕事場で肩身の狭い思いをしながらも、子どものために早退する華子の姿を想像して、さらに切なくなるのだった。


そんな中、未希は先輩ママ友のランチ会に参加して…

沙耶香のサロン風ママ会


「そうですか…。お忙しいところすみませんでした」

未希はため息交じりに電話を切る。電話をかけていたのは、役所の保育課だ。

仕事も何も決まっていない未希の状況で、どこか子どもを預けられる場所はないかと思い切って相談したが、やはり答えは「認可外をご自身で調べて検討してください」という回答だった。

予想はしていたが、想像以上に冷たい対応に未希は落胆する。

そんな未希を落ち着かせるかのように、エントランスで見た華子や、まりあの力ない様子が脳裏に浮かび上がってきた。

まだ言葉もうまく話せない我が子。今のところ手のかからない子だが、今後、何があるかわからない。

―やっぱり、小さい頃は一緒にいるべきだよね。

未希は身動きのとれなさを正当化するために、無理やり自身を納得させようとするが、本音を言えばやはり復職したい。その葛藤と、これから何年も戦うのかと思うと気が重くなった。

その時、未希のスマホにLINEの通知が届く。相手は沙耶香だった。

『お久しぶりです。今度、またパーティルームで集まりがあるんですけど、どうでしょう?』

『行きます!!』

未希はすぐさま返信を打つ。何でも親身に話を聞いてくれる沙耶香に会えるということで、気分が心なしか軽くなるのだった。



「いらっしゃい、咲月ちゃんママ」

約束をした日時にパーティルームへ足を踏み入れると、沙耶香は以前のように、優しく未希を迎え入れてくれた。

前回会ったママさんたちをはじめとする面々だが、今回は未希も入れて6人ほどの少数精鋭。みんなニコニコしており、それだけで気持ちが明るくなった。

「お久しぶり。ふう君ママ、大変みたいね」

「ええ。ひとまずは回復したみたいで、本当に良かったです」

「でも、再発や後遺症も心配ね。お薬たくさん飲まされたんでしょう。うちの子、昔病気になった時に、その場しのぎの薬や注射ばかり打たれて大変だったの」

「本当ですか…!?」

深刻そうな沙耶香の表情。周りのママさんたちも、深くうなずいている。

―え、そうなんだ…?

未希の心に大きな不安がのしかかってくる。

「子育てって、本当に困ったときは誰も助けてくれないからね。咲月ちゃんママもそうでしょう。復職したいのに相談しても、行政は何も手助けしてくれないじゃない」

「本当にそうなんです。この前も相談の電話をかけたんですが、冷たくあしらわれて…」

「大丈夫、私たちは仲間だから!何でも助け合いましょうね♪」

そう言って沙耶香はニコリと笑う。その笑顔を見て、不安に苛まれた心が魔法にかかったように軽くなった。

「さ、ランチにしましょう。咲月ちゃんママも大好きなお店のピザを頼んだの。この前言い忘れたけど、このお店はオーガニック食材しか使っていないから、何でも安心して食べられるのよ」

キラキラと輝く沙耶香の微笑みが神々しく見える。

未希はその異様なまでの前向きさに、どこか救いを感じるのだった…。


▶前回:娘を実家に預け、男と会っていたことがバレた妻。言い訳する女に夫がかけた言葉とは

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不安を抱える未希を優しく受け入れる沙耶香。そのポジティブさはまるで何かに憑りつかれているようで…