職場は、戦場だ。

出世争い、泥沼不倫、女同士の戦い…。

繰り広げられる日常は、嘘や打算にまみれているかもしれない。

そんな戦場でしたたかに生きる「デキる人」たち。

彼らが強い理由は、十人十色の“勝ち残り戦略”だった。

大手IT会社に勤務する25歳の花山 樹里は、そんな上司・同僚・後輩と関わりながら、それぞれの戦略を学んでいく…。

▶前回:「あの子、俺のこと多分好きだな」社内評価の高い男が、恋心まで利用する理由



「ふぅ…」

深いため息をつきながら、愛子がポータブル加湿器のミニタンクを持って立ち上がる。

その様子を隣の席から見ながら、樹里はボンヤリと思った。

ー愛子さんが片付けに入ったってことは…、もう定時10分前ってことね。

「じゃ、お先に。お疲れさまです」

タンクを洗って帰ってきた愛子は、高級そうなトレンチコートを片手に颯爽と去っていく。

愛子は毎日、18時の定時きっかりに帰宅する。その10分前には、加湿器の片付けを始めるのがルーティーンなのだった。

「あ、お疲れさまです」と樹里が小さく呟き顔をあげると、そこにはもう愛子の姿はない。

いつも通りの光景ではあったが、樹里だけは、ほんの少しだけいつもと違うところを感じ取っていた。

ー愛子さんって本当、クールで合理的。でも、いつも以上に無愛想だった気がする。やっぱ今日のミーティングのこと気にしてるのかしら…。



愛子は今から約1年前、上司・紗栄子率いるチームに異動してきた、樹里の同僚だ。

端正な顔立ちを生かしたナチュラルメイクと、クールで上品なパンツスタイル。左手に光る明らかに高級な指輪。

普通ならニコニコしながら自己紹介をするであろう場面でも、愛子はニコリともせずに淡々としている。

そんな愛子から樹里が受けた第一印象は、決して良いものではなかった。

ー私、この人とうまくやっていけそうにない…。

そのきっかけとなったのは、昨年末に起きたある”事件”だ。


クールで超絶合理的な女が上司に取った衝撃の言動とは?

「ぜひ今月中に、三宮さんの歓迎会をしましょうよ」という紗栄子の提案により、幹事役となった樹里が初めて愛子と話した時。

「愛子さんの歓迎会を企画中で、今月でご都合いい日はありますか?」

そう尋ねる樹里に対し、愛子は取り付く島もなかった。

「ごめんなさいね。お気持ちは嬉しいんですが、私、そういうの参加しない主義で」

綺麗に手入れされた髪の毛をかき上げながら、流し目でそう答えた愛子に、樹里はナイフでぐさりと心を刺されたような衝撃を受けた。

ー合理的、クールの極みだわ…。

そして、今日。

チームでのミーティングの場でも、そんな愛子の合理的発言が炸裂したのだ。

連日忙しそうにしていた紗栄子が、緊急ミーティングと題してチームを招集し、申し訳なさそうな表情で呟いた。

「来月、急きょ新サービスのリリースが決まりました。それで、いくつかの作業をチームで分担してお願いしたいの」

かなり急ではあるが、社内で絶大なパワーを持つ紗栄子に物申せるメンバーがいるはずもない。

あまりに急な展開に戸惑いながらも、それぞれが「はい」と頷いていた、その時。

愛子だけが、わざとらしくため息をついたのだ。

「あの…。1ヶ月後までにこれをやるっていうのは、普通だとありえないスケジュールです。この話は以前から動いてたはずで、事前に我々にも話入れておいていただきたかったです」

ー愛子さん、それを紗栄子さんの前で言ってしまうの…凄い…。

突然の爆弾発言にハラハラしながら、樹里はチラっと紗栄子の方を見る。紗栄子は驚きと怒りが混じったような表情を浮かべ、その顔色はこれまで見たことがないくらい、真っ赤だった。

「愛子さん、この部署ではこういうことも仕事のうち。今わからないなら、ぜひ学んでいただきたいわ」

一瞬の沈黙を挟んで、紗栄子も負けじとそう言い返す。

ーバチバチしてる…なにこれ…。

音をたてずに静かにいがみ合う二人を交互に見ながら、樹里は開いた口を抑えるように手を当てるしかなかった。



【今回の登場人物】
名前:三宮 愛子
年齢:34歳
所属:マーケティング部
家族構成:既婚(DINKS)


愛子は、しーんと静まりかえった会議室で、慌てたようにキョロキョロする樹里を見ながら思った。

ーあらら、慌てさせちゃったみたい…。でもね、花山さん。これが私のやり方なの。

たしかに、樹里の慌てぶりをみていても分かるように、紗栄子は職場でも重要な役回りを担った権力者だ。

しかし、そんな事実を前にしても、愛子はまったく動じない。

ー相手が誰であれ、私の戦い方は変えない。「媚なしキャラで、逆に愛される」のよ。

チームのメンバーが紗栄子に言いたいことを言えずにいることは、見ていて明白だ。

それならば、主張すべきポイントでは、みんなの声をしっかり代弁させてもらう。

「愛子さん、さっき正直びっくりしましたけど、正論っすよね」

「さすが愛子さんです、かっこよかったです」

案の定、ミーティング後にチームメンバーがわらわらと愛子に話しかけてきた。

「いえ、思ったことを言っただけなんで」

そう軽く流しながらも、愛子は確信を深める。

ーほらね。紗栄子さんだって私の指摘に思うところはあるだろうから、今後は無茶振りが減るはずよ。

実際に愛子は、このやり方でこれまでうまくこなしてきた。仕事も恋愛も、友人付き合いだって、相手に過度に媚びる必要は全くないのだ。

ただし、そんな愛子の心情は、ここのところわずかばかり揺らいでしまう時がある。

ーそう、無理をする必要も、媚びる必要もない。それなのに…どうして夫婦関係だけはうまくいいかないんだろう。

夫とはここ最近、ろくに会話もしてない。

合理的な行動を取ってきたはずの自分の人生で、唯一説明がつかない事態に混乱しそうになっていると、ふと、ポケットの中のスマホがブッと振動した。

愛子がスマホを見ると、画面に表示されていたのは…

マッチングアプリの通知だ。


メッセージをくれた“S.K.”の、意外な正体

『S.K:もし今日あいてらっしゃれば、飲みにいきませんか?』

口元をアップにした写真で顔全体は見えないものの、年下だが好青年。そんな印象を抱き、先ほど”いいね”を送った男性からのメッセージだった。

破綻した結婚生活の孤独だけは、1人で埋められそうにない。

独身の女友達に聞き、寂しさからつい最近始めてみたマッチングアプリだが、こうして1人の女性として誰かに興味を持ってもらえることは、今の愛子にとっては言いようのない心地よさを感じさせてくれた。

ーこんな気軽に知り合えるのね…。夫は今日も帰りが遅くなるって言ってたし、行っちゃおうかしら…。

ほんの少しだけためらった後、意を決して『A:ちょうど今日空いてます。ぜひ』と返信を送る。

そして、その数時間後。愛子は、指定されたレストランに座っていた。

どんな人が来るのだろうとソワソワしていたが、現れたのはアプリの印象通りの、爽やかな男性だ。

だが、その顔をよくよく見た途端、愛子の胸がかすかにざわついた。

「…え、あれ?…もしかして…?」

戸惑う愛子に向かって、男性はにっこりと微笑みながら自己紹介をする。

「あ、お待たせしちゃいましたよね、木下と申します」

写真では気付かなかったが、会社で見かけたことのある顔…。そして、“木下”という名前も、仕事でよく耳にする。

「三宮愛子さん、ですよね?同じ会社の、木下です。すみません、自分は気付いててメッセージしてました」

ほんの少しだけうろたえながらも、愛子は平然を装う。

「S.Kさんって、営業部の木下さんだったんですね」

ーこの展開、やばいかも…。無かったことにして逃げ帰りたいけど…、逆に面倒くさいことになるわよね…。

後悔したものの、今さら逃げ帰ったところで、アプリで出会ったしまったという事実は消すことができない。

愛子は覚悟を決めると、あくまでクールな表情を貫きながら、木下にドリンクのオーダーを促した。

木下とはお互いに存在は認識していたようだが、話すのは初めてだ。

最初こそ探り合いで気まずさはあったものの、意外にも、次第に会話は盛り上がっていく。

そして、ふとした瞬間。ワインを傾ける木下と目が合った。

愛子が首をかしげると、彼が微笑む。



「愛子さんって、側からみるとクールで冷たい人なのかなって勝手に思ってたんですけど、あれ、仕事上のキャラなんですね」

「…え?」

予想しなかった木下の言葉に、愛子の心臓がドキッと弾む。

ーそうよ。合理的でクールなのは、仕事上のキャラ。…でも、本当の私は…。

夫との関係がうまくいかなくなってから、常に「媚なしキャラ」を演じ続けてきたような気がする。

そして、本当の自分を感じさせてくれる男性がこうして久しぶりに現れたことに、愛子の感情はどうしようもなく揺さぶられてしまうのだった。



「え…あれって、木下さんと、愛子さんよね…?なんで…?」

樹里の心臓が、ドクドクと音を立てて騒ぎだす。

女子会が終わり、店を出ようとカウンター席の近くを通ったその時。見覚えのある二人を見つけてしまったのだ。

ワインを片手に大人な雰囲気を漂わせながら微笑みあう二人は、愛子と木下だ。明らかに仕事だけの関係ではなさそうだし、愛子は見たこともないような柔らかい表情を浮かべている。

ーえ、でも、愛子さんは結婚してるはずだし…。

「樹里ー?どうしたの?出口はこっちよ」

混乱のあまり立ち尽くしてしまう樹里に、友人が呼びかける。

「あ、ごめん、なんか知り合いがいた気がしたんだけど、気のせい」

友達に微笑みかけながら、樹里は自分の中に、嫉妬にも劣等感にも似た感情が湧き上がってくるのを感じていた。

ー何よ…。愛子さんみたいな人が結局勝つわけ…?

無愛想なくせに同僚からは慕われている愛子。なんだかんだで、紗栄子にも一目置かれているように見える愛子。

それなのに…。

「木下さんの心まで、持ってくの…?」

こみ上げる悔しさをなだめるように、樹里はギリギリと拳を握りしめる。

そして、嫉妬にまみれた心の中で、自分に誓うのだった。

ー私だって、負けていられない。明日からもっと観察して、愛子さんのやり方、自分のものにしてやるんだから…!



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香港出身の資産家の息子。彼が見つけた戦い方とは?