「しばらく尾形さんの家には帰らない。本当にごめんね」

あの電話から一週間。将人は本当に、友梨の家に帰ってこなくなった。

連絡して理由を聞くことはできた。しかし友梨は躊躇した。

あくまでも元同級生の同居人だ。理由を問い詰めるような関係ではない。

「心配しないで大丈夫」という将人の言葉を信じ、淡々と日々を過ごすことに決めていた。

―ここ最近いろんなことに振り回されたしな。ゆっくり生きよう。

だがそんな決意も空しく、事件は起きた。

その日、友梨は同僚の真子と早めのディナーの約束をしていた。店は、友梨がお気に入りの恵比寿にあるイタリアンだ。

「へえ。お洒落なところだね」

真子も気に入ってくれたようで、店内を見渡している。

「雰囲気良いよね。ここのパスタ最高なんだよ」

ワインは進み、会話は弾んだ。真子とは職場で顔を合わせるものの、最近はゆっくり話す時間がなかった。

真子が旦那さんに「今日は夕飯食べてから帰るね」とLINEを打つタイミングで、友梨は席を立ち、化粧室へ向かう。

先客が中にいたため待っていると、ほどなくして扉が開き、男性が「すいません」と言いながら出てきた。

刹那、友梨は頭が真っ白になった。

元カレの駿が、そこにいたのだ。


偶然にして、最悪の再会。そして、浮気された元カレから聞かされた衝撃の話とは…。

「友梨さん…!?」

絶句している友梨とは反対に、駿は即座に言葉を発した。

しかし友梨には、返す言葉は無い。駿を押しのけるようにして個室に入り、波打つ心臓をなだめる。

―なんで駿がここにいるの?

よく考えれば、この店には何度も駿と足を運んだことがあるし、彼の得意先の会社が恵比寿にあるというのも聞いたことがある。

―とにかく一度、落ち着こう。

個室から出る前に何度か深呼吸をして、やっと落ち着いてからドアを開ける。だが友梨の心臓は、また早鐘を打った。

駿がまだそこに立っていたのだ。

下を向いて足早にすれ違おうとする友梨を通せんぼするように、駿が目の前に立ちふさがった。

「どいてくれる?」

「友梨さんに話したいことがあるんだ」

真剣な駿の声にどきりとした。

―もしかして浮気相手と別れたからヨリを戻したい、とか?

瞬間的に甘いことを考えたが、すぐに冷静になる。万が一、瞬がそんなことを言い出したら、その時は殴ってやろう。

「偶然会っただけなのに、話したいことなんてないでしょ?」

「偶然会ったから、話しておきたいんだよ」

「私は話したいことなんてない」

駿を腕でどかそうとするが、肩を掴まれた。



「ねえ、聞いて」

「しつこい。離して」

振り払おうと力を込めたその時、駿が放った言葉に、友梨の心は粉々に砕け散った。

「俺、実は…結婚するんだ」

「…は?」

「俺、結婚することにした」

意味がわからなくて、両目が宙をさまよう。

「えっ…だれ、と…?」

かすれた声は自分のものとは思えないほど弱々しくて、友梨の腕からは完全に力が抜けていた。

「あのとき、友梨さんに話した子」

それは別れの原因となった、駿の浮気相手だ。

「友梨さんと別れた直後に、彼女から言われたんだ。『妊娠した』って」

「…」

「だから“責任を取らないと”って思ったんだ」

怒りと呆れで、言葉が出てこない。責任取らないと、なんてどの口が言っているんだ。

黙った友梨の様子を、話を聞く姿勢だと誤解したようで、駿は話し続ける。

「そのうち子育てしやすそうな土地でマンションも買うつもり」

「…そう」

やっとの思いで絞り出した声には、何の感情もなかった。声というよりも音に近い。

「だからこの店で男友達が祝ってくれてたんだ。友梨さんに報告しようか迷ってたんだけど、偶然でも会えて話せて良かった」

あまりに身勝手なことを、駿は爽やかに言い放った。

「会わない間に、俺、大人になったでしょ?」

視界がグニャリと歪む。

そのあとは何を話したか、覚えていない。真子の席に戻ってからも、それは変わらなかった。

仕事と真子の結婚生活の話で談笑した気がする。しかし中身は一切覚えていない。何を食べ何を飲んだか、会計をどうしたのか、それすらも覚えていない。

覚えているのは、不幸中の幸いで、友梨が座った席からは結婚を祝われている駿の姿が見えなかったことだけ。

意識が戻ったのは、店を出て真子とバイバイしたあとだ。


奈落の底に落ちた友梨が見たものとは…?

帰り道は、歩いている実感がなかった。

ふわふわとしているのに、前に進めない。体が軽いのか重いのかも分からない。まるで水の中を歩いているような気がした。

真っ暗な部屋に、なんとか辿り着く。今夜も将人は帰ってこない。

―今夜は、今夜だけは一人でいたくないのに…。

電気をつけ、呆然とリビングに立ち尽くす。

―私、どうして一人でいるんだろう…。

強烈な寂しさに包まれる。

―私以外のみんな、私を置いて、どこかに行ってしまう…。

不意に視界が暗くなり、すぐまた明るくなる。と思うと、また暗くなる。

何事かと思ったが、天井に埋め込まれていた間接照明のひとつが、不均等なリズムで点滅していた。

―電球を取り替えなきゃ。

そう思った瞬間、限界を迎えた。

化粧も落とさず寝室に飛び込み、後ろ手でドアを閉める。同時に全身から力が抜け、そのまま床に崩れ落ちる。

すでに頬は濡れていた。

拭っても拭っても、とめどなく涙が溢れてくる。喉の奥が詰まって、どうしようもなく苦しくて、嗚咽を漏らす。

天井に埋め込まれた間接照明も、このマンションを気に入った理由だった。仲介業者には「電球を取り替えるのが大変ですけど、旦那さんがいれば安心ですね」と言われていた。

実際、最初に電球が切れた時は、紘一がいた。次に電球が切れた時は、離婚後だったが、すでに駿と同棲を始めていた。

いつも誰かが電球を取り替えてくれた。

家の中に虫が出た時も、同じだ。紘一や、あるいは駿が退治してくれた。

もし将人と奇妙な同居を続けていれば、彼が電球を取り替え、虫を退治してくれただろう。

やっと気づいた。友梨はいつも誰かに守られて、安心していた。その誰かの隣で笑っているだけで良かった。

大学を出て由緒正しきホテルに就職し、結婚し、離婚し…自立したひとりの強い女だと自分のことを誤解していた。

―そんなことはない。私は弱い。そして、ひとりぼっちだ。

元夫の紘一は再婚を予定していて、元カレの駿は子宝を授かり結婚を決め、同居人である将人は急に帰らなくなった。

自分なら一人で生きていける。そう考えた時期もある。でもダメだ。一人では生きていけない。

―私は…。誰かと、一緒に、いたい。

友梨は顔を両手で覆い、声を抑えずに泣き続けた。

最近こうして泣くことが多かった。でもただ辛いだけで、こんなに孤独を感じることはなかった。

踏ん張ることもできない。泣くしかできない。



やがて泣きすぎて頭が痛くなり、友梨はベッドに潜り込む。

横になってしゃくりあげていると、突然、啓示を受けたようにハッとした。突然のアイディアが降ってきたのだ。

「…そうだ。引越しをしよう」

このままじゃダメだ。みんな前に進んでいる。

ー私も前に進みたい。

結婚してから引っ越してきたこの家に、友梨はずっと住み続けている。元夫の紘一が出て行ったあとも、駿と付き合いだしてからも住み続けた。そして駿との同棲もこの家で始め、この家で終わった。

この家が気に入っているから…。意識的に自分にそう言い聞かせていた。だが無意識下ではずっと前からわかっていた。この家にいることが、すべてを停滞させている。

そもそもこの家は一人で住むには広すぎるし、あまりにも思い出が多すぎる。もっとコンパクトな部屋に引っ越そう。

明日が休みの日で良かった。

明日起きたらお風呂に浸かって、念入りにスキンケアをしよう。きっと瞼は腫れているが仕方ない。

その前に電球を取り替えよう。紘一が駿が取り換えるところを見ていたし、それを思い出せば自分でもできる。

虫が出たとしても退治すればいい。リビングに殺虫スプレーがあったはずだ。

そして、新しい物件を探そう。

「たかが離婚、されど離婚」

いつか将人と話していた時に、彼はそう言って笑った。

あの軽やかさが、今の自分には必要だ。


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転居を決めた友梨のもとに、将人が帰ってきて、ある告白を…。